第22号編集会議 キリスト教的表現の再評価
2013 5/3 in秋葉原
★ 編集会議出席者
・那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
・高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
・土=土橋数子(ライター)
●賀川豊彦、伊福部隆彦、出口王仁三郎
土 賀川豊彦。現在に蘇らせたい人なんですけど。
高 ぼくはこの人の思想はよく知らないんだけど、もし無我的なものがあるんだったら。
土 そうですね。評論とか、昔、大ベストセラーを出したんですよ。「死線を越えて」っていう。
高 それは知ってます。
土 それ以降、昭和天皇と並んで海外に知られる日本人ベスト3か何かに入っていたんです。ノーベル賞候補にもなったらしいんですけど、おそらくキリスト教の正統派の人たちからわりと異端視されていたというか。
那 キリスト教系なんだ?
土 そうなんですよ。キリスト教系というよりキリスト教。カトリックでもプロテスタントでもなく、キリスト教。
高 細かい宗派を超えた、直接的にキリストの精神に根ざした活動を。
土 そうなんですよ。それで正教会に属していないので、いまひとつ、内村鑑三にはなれなかったという。そうですね、貧民窟に真実があるという考えでもってそこに飛び込んで。
那 なるほどね。
※ 賀川豊彦=大正、昭和期のキリスト教社会運動家。戦前日本の労働運度、農民運動、無産政党運動、生活共同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創設者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。ノーベル平和賞に3回、ノーベル文学賞に2回ノミネート。
高 ひとつひとつについて話し出すときりがなくなっちゃうけれど。あと伊福部隆彦さんですか? ダンテス・ダイジの師匠で有名な人。ご親戚が門下生だった? 珍しいですね?
土 はい、珍しいですね。
高 ぼくはダンテス・ダイジはよく読んだりしているんですけど、伊福部さんについてはあまり本とかも手に入らないし。
那 完全に禅の人でしょ?
土 そうですね。伊副部さんは書道家で、文筆家でもありました。
那 昔ながらの禅師ですね。
土 そうですね、親戚はお習字を習っていたくらいだと思うんですけど。親戚は売れない出版社をやっていて、そこで伊服部先生の本も出していたんです。会社はもうつぶれましたけど。
高 そうなんですか。それはもう手に入らない? 絶版?
土 この間、親戚の家に本がいっぱいあるというので、本を売るにはどうしたらいいかって。青空市で売ってくれないかって(笑) まぁ、古本屋探しておきますって言ったんですけど、もう80いくつで、いろいろ処分しようと思っているみたいなんですけど、本はあると思います。
高 もし手に入るんだったら欲しいです。
土 はい、持ってきます。
那 昔の禅師とかって教養人ですよね。オールラウンダーというか。昔の人の方がすごいというか。空海までさかのぼるとあれだけど。
高 大本教が好きってメールに書いてあったんですけど?
土 いや、普通に出口王仁三郎とか文庫本で読んで。弾圧された経緯とかですね、どちらかというと弾圧された方に、共感というか、良いこと言っているのに、とかね。
高 好きなんですね。
土 9月8日が大本教にとって大事な日だと書いてあったんで、9月8日生まれなんで、なんか(笑)
高 なんで大事な日なんですかね?
土 本に書いてあったんですよ。
高 12月8日に弾圧があったんですよね。捜索が入って。第二次大戦とシンクロしてる。
土 大本教は数字に意味を持たせるので。
高 数字を大事にしてる。
土 占いとかそういうのがあって。それもだいぶ前に読んで、生長の家とかもけっこう好きで。好きというと語弊がありますけど、興味があって。
高 そういうのをけっこう読んだりしてる。
土 小さい頃、バス停で「白鳩」とか置いてあったりして。
高 あまり身のある話になってないですけど(笑)
那 とりあえずは挨拶がてら。こういうのが好きって。
高 奥崎謙三が好きってことですけど、「ゆきゆきて、神軍」は好きだったけど、次の映画がひどかった。
※奥崎謙三=アナーキスト。昭和天皇パチンコ狙撃事件、皇室ポルノビラ事件やドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」への出演で知られる。自らを「神軍平等兵」と称していた。
土 知人が身元引受人をやっていました。
高 すごいな。
土 それで。それで私がうっかり読書感想文を送ってしまったんですよ、彼に。
高 獄中に?
土 そうそう、そしたら最初の結婚の時に5万円くらい送ってきて、お金を。もちろん返しましたけどね。身元引受人の人に。
那 パチンコで天皇のこと打った人でしょ?
土 そうです、そうです。一時、ブームというか、取り上げられた。知人はかなり真剣に。たいへんなんですよ、ああいう人と付き合うの。
高 そうでしょうね。あと、いただいたメールに書いてあった、画家の熊谷守一さんですか? ぼくも池袋の美術館で見てきたんですけど、すごいいいなって。志賀直哉の文庫本の表紙にもなっているんです。
土 そうですか。そうかもしれない。よくいろいろ使われていますよね。「下手も絵のうち」って本があって、そこに書いてあることが「無我的」というか。改めてそう言っちゃうと、もっとすごい河合寛次郎とか出てきちゃうんで。切り口を変えて無我を見出したら面白い。
高 すごいですね。まぁ、一通りこんなとこなんですけど(笑)
那 引き出しが多くて頼もしいです。
●エンタメには「答え」がある。芸術には「答え」はない。
土 私は悪名高きバブル世代なんですけど、少し上ですよね。
那 でも、昭和40年代生まれというくくりなら同じってことで(笑)
高 お仕事はライターさんですよね。
土 いちおう(笑)
高 いただいた文章(メルマガへの感想)を見てそんな感じを受けましたよ。書いてる人だなって。ぜひね、記事もお願いしたいですよね。
那 我々にはない切り口があると思うので。
土 無我と言えるかどうかが大前提の問題です(笑)
那 それ言ったら、何でもありだから、最近。何でも好きなものを書いてもらえばいいんですよ。ピンポイントでも結びつけてもらえれば。
土 結びつけて。
高 あまりガチガチにね、大上段な記事ばかりでは面白くない。
那 AKBをネタにした時点ですべてがOKになったってことでしょ(笑)
高 あれは拡げるためにというのもあったけど、何でもいいんですよ。
那 書き手が少ないので。
土 よくあのボリュームでやれていますよね。
那 月一回だから。逆に言うと、それ以外のことやっていないし。
高 書き手を増やしたいと思っていたんです。
那 完全に無報酬の奉仕みたいなものですけどね。無料メルマガですから。好きな人なら何でも書いてもらえれば。
高 仕事だと思うとつらくなるから、本当に好きなことを好きに書いてもらえれば。そのためにはある程度感性が同じ方向にないといけないんだけど。まったく違う方向いている人が好きなこと書いても違うけど、いただいたメールを見ると近い方の気がしたので。
土 まぁ、スピリチュアルも嫌いじゃないというのが微妙なんですけど(笑)
高 ぼくもそうですよ。
那 ぼくがこの業界を知った時の拒否反応が半端なかったので、そっちにいっちゃったんですよ。
土 (笑)
那 別に、嫌いじゃないですよ。スピリチュアルは。あまり言わないようにしているけど、感覚的にはそっちの人だし。ただ業界が肌に合わないだけで。
土 例えばどういうやつですか?
那 まぁ、具体的には表立って言わないようにしているんですけど、なんかインスタントだなって。最近ね、わりとエンタメ系の小説とかも読むようにしているんですよ。
土 はい。
那 それで、元々文学好きの人だったんだけど、エンタメと文学の差ってひとことで言って何かなって、思った時に、何となく感覚的には線引きはあるとしても、自分の中で、「ああ、これだな」と最近思ったのが、エンタメには答えがある。文学には答えがなくて、生それ自体が答えというか、表現形式それ自体に意味がある。
土 ええ。
那 エンタメ系だったらトリックがあったり、落ちがあったり、犯人がいたり、人生ってこんなもんだよって答えがある。わかりやすかったり、安心したりする。それはそれでいいんだけど、じゃあ、スピリチュアル業界にそれを当てはめると、99%エンタメの世界。
土 そうですよね。
那 答えがあって安心? この迷い多き世界で、やっとここに答えがあったと。真実を教えてくれたと。でも、それエンタメで、これは癒しですよ、娯楽ですよって教えているんならいいんだけど、これが人生の答えだと教えちゃうから、全部が浅くなっちゃうっていうの? 方向性としては正しくても、それはあくまで元気付けたり、こっちの道が正しいって方向性だけで、それは答えではないんですよね。それが答えになった時に、人生は逆に浅くなる。だから、こういう業界ってエンタメなんだなって。エンタメだから人が集まるのかもしれないけど。
土 まぁ、そうですよね。
那 そして人が集まっているとこほど、本物なんだみたいになっちゃうと。ぼくは古臭い価値観かもしれないけど、文学があってのエンタメで、芸術があっての娯楽だと思っていて、その軸というか、それがない世界になっちゃっているというの? だから「答え」をコピーみたいに繰り返す人をたくさん見るけど、「今ここでOK」「あるがままでOK」みたいな。「今ここ」と「あるがまま」って言う前に、本当はものすごい自己否定とか、自己認識とか、自己破壊とか段階があるんですけど。自己陶冶というかね。
土 そうですよね。
那 それを全部省いて瞬間なら何も考えなくていいですよ、というのは違う。
土 考えるなっていう言い方しますよね。
高 考えさせないようにする。
那 だからこれはエンタメなんだって気づいた時に、薄いなっていうかさ。その薄いものを本物だって教えている時に、それは罪だなって思う。あくまでああいうものは癒しだったり、道しるべであるべきで。方向性としては間違っていなくてもさ。
土 うん。
那 だから、そういうのおかしいんじゃないかって思うような人が連絡を取ってきてくれたりするんですよ。だからスピリチュアル自体を否定しているわけじゃなくて、感覚的にはそれはあるけれど、あまりにアミューズメント的になっているから、同じと思われたくないから言えなくなってきたという(笑) 「あるがまま」とか今、言いづらい。単に癒しの道具ですものね、今。そういうものは生きるか死ぬかの命がけのものですよ。いろいろなものを破壊して、落として、地に足着いて、落ち着いて「あるがまま」。自分が自分になるというかね。そこでようやくぶれない。認識から先の道なんですよ、あるがままって。だからこういうところって知らなかったからびっくりしたんですよ。
土 事例として上がるのが、今ここ系とかそういうのですか?
那 それとアドヴァイタ系? すべてが真我なんだからごちゃごちゃ言うなみたいなね。これもまた同じ原理。ものすごく攻撃的で、もうカルトですよね。怖いですよ。呪文みたいに同じこと言っている。
土 ええ。
那 でも、そういう人に、「それ、違うよ」と言ったら、揺れちゃうでしょ? ものすごく傷つく。傷つくから相手を否定しようと攻撃してくる。あるいは世界から異なる存在を排除しようとする。そんな風に傷つくってことは、その真実は自我の延長線上にあるものでしかないってことです。中核に固いに自我があるのと同じ。自我が真我になっただけ。だから無我って言葉にあえてこだわったのは、「私が」とか、「真我が」とか、「今ここが」とか、そういうのも全部捨てて、つまり自我肯定のベクトルを全部捨てた先に見えてくるもの、触れるものを手探りで表現していければということなんですよ。それは確かに事物のように存在するけれど、答えじゃなくて、手探りでつかんで、試行錯誤しながら工夫して表現してゆく、未知なものなんです。未知な空間だから自由があって、自由があるから創造があると思うんです。
土 こんなんでいいはずはないなって思いつつ、心が折れている人には、あまり言っちゃ悪いのかなっていうのはありますよね。
那 だから普段は言わないですよ。そこでおかしいとか。ブログでも直接は言わない。こういうメルマガみたいなコアな場所だから言えるけど。逆に、そういうのに触れて精神病みたいになっちゃった人がいて、聞かれたらある程度論理的に、こういう理屈で苦しんでいると思うよというのは助言します。なんでかって言うと、論理的に言える人はいないから。金取ってるから悪いという人はいますけど、なぜそれが人を逆に苦しめるのかということを論理的に言える人がいないみたいなので。
土 そうですよね。その人がいいのならいいのかな、とか思っちゃうし。うやむやにしがちなので。
那 でも、これを表立って言うと、そういうことのためにやっているのではないから。ただ、ピンポイントで来てくれた人にはね、少し言うくらいです。要は新興宗教ですよね。カルトから抜けた人は悪魔になったとか。精神的に不安定になるから。それとまったく同じ理屈を感じちゃうんです。例えば、昔、土橋さんが原理研に喧嘩を売ったことがあるということですけど、まるきり同じなんですよ。
土 ええ。
那 原理を信じない人は悪魔の側に落ちるとか、そういうことでしょ? それと近いものを感じちゃう。
土 原理研も19歳くらいの時の話ですけど、センターに誘われるわけですよ。
高 ビデオ見に行かせられる。
土 そう、ビデオ見に行って、何かおかしいんじゃないかって。段階的に言ってきますよね、最初、原理って言わないで。
那 ちょっと勉強するお茶会みたいのしませんか?という感じ。
土 そう、すごい夜中まで、みんなを幸せにしたいと言っているんですよ。すごい真面目なんです。
那 皮肉なことに、真面目な人ほどそうなってしまう。頭の良さも関係ないんですよね、あれ。ぼくも早稲田でしたけど、そっち系の人はよくキャンパスでうろうろしていましたよ。早稲田の政経とかね、頭いい人ほど、真剣に考察した結果、これが真理だと判断した、となってしまう。カルトのシステムというのは怖いですよ。これほど真面目で頭よくても、その中に入っちゃうとわからなくなってしまうんだって。
土 若い頃から洗脳というのが興味あるテーマで、オウム真理教とかで脱洗脳した人誰でしたっけ?
那 苫米地氏?
土 そう、それとかヤマギシ会とかにも興味があって、なぜに洗脳されるのかということですね。そういうプロセスになぜかわからないけど関心があったんです。
那 カルトのシステムというのは、そのカルトの内部では筋が通っているのが特徴なんです。ヤマギシでもオウムでも、原理でも。隙がないんですよ。その中にいると、筋が通っているから完璧な論理に見えてしまう。真実というのはこれだったんだと真剣に考察した結果、信じてしまう。一歩外に出ると違うんだけど、中にいるとわからなくなっちゃう。知で追えば追うほど、思考を積み重ねるタイプであればあるほどはまっちゃうんですよね。直感的に何かおかしいとか、体感覚で、まぁ、今の人はそういうの減ってるけど、ある種の人は生理的に受け付けないというのはあると思うけど、真面目に勉強、勉強でやってきた人ほどはまる気がする。そういう人を実際に見てきたから、それがわかる。洗脳ってこういう風になるんだって。人間がまるきり変わってしまう。顔つきも、目つきも。環境や条件付けによって、どんな風にでも人はなってしまうというのを目の前で見ることができる。
土 ええ。
那 だからよくできてますよ。ぼくも新興宗教については個人的に興味があって、いろいろ読んだ時期はあるけど。一見、その中では正しくなってしまう。それを信じている人は、この教祖が真のメシアで間違いないんだと言う。間違いあるだろ、と思うけど、全人生を賭けて間違いないと。
高 スピリチュアル系でもカルト化しているところがありますよね。
土 偵察に行ったことはあるんですけど、みんなどっかんどっかん笑っている。何か違うな、と。
那 テクニックがあるんでしょうね。
●自分の外の断片を全体化した時に、カルトが始まる
土 オーロビンドという人がいて・・・
高 シュリ・オーロビンド。
土 そうそう、インドでオーロビルという場所に行ったんですよ。インドは観光というか、ヨガとかそういうのではなく、ただ猿岩石みたいにインドに行って。命からがら帰って来たんです。
高 ご主人がアウトローな感じ?
土 前のね。私は田舎者のまじめっこで、向こうは都会の不良っぽい感じの人。田舎者だからかっこいいと思っちゃった(笑)
それでオーロビルという所に行ったんです。中に入れさせてもらって、観光気分で行って。そこは理想都市ということで。インドというのはどこもすごい貧民窟みたいな感じなんですけど、その町が理想都市と普通にインドの人たちが住んでいる町の落差が激しすぎて、何か受け入れられないというか。そういう気分で帰って来たんですけど。そこは白人や日本人の人が移住していたんですけど。
高 ラジニーシもアメリカにアシュラム作って失敗しましたけど。金持ちの白人相手に。
那 なんであの人人気あるんだろうね?
高 本がたくさん出ているからでしょ?
那 あの人の本読んでわかるのは、やっぱりエンタメなんですよ。こういう修行したらこうなるって答えが書いてある気がする。ハートが開くとかどうとか。わかりやすいし人気が出るのも何となくわかる。雰囲気もそれっぽいしね。クリシュナムルティは一見、わかりにくいけど文学ですよね。文体自体が形式自体が彼の境地を表現できてる。翻訳でもそれがわかります。ラジニーシはエンタメだと思う。あえてそれを広めるためにやったって言ったらそうなのかもしれないけど、そこまでこっちは考える必要もないから。
土 何となく、私もそんな気がします。よく読んでの結論じゃないですけど。
那 ぼくもたいして読んでないですよ。でも、一、二冊読めばわかります。マニュアルというか、信仰と同じですよね。
高 一人のグルをあがめる宗教。
那 例えば、ラジニーシから学んで修行した人が、ラジニーシをこういう風に否定されて傷つくとしたら、それはラジニーシが彼の自我の延長線上の存在に過ぎなかったということです。クリシュナムルティの私生活でいろいろ言う人もいるけど、自分は興味もないし、むしろいろいろあって当然でしょ? 逆に、文学的だな、と感じましたよ。だからそこで傷つくとかもない。一人の人生ってのはとんでもないものですよ。イメージとか理想とは全然違う。マザーテレサもガンジーも一般的な「聖者」のイメージとは全然違う生活を送ってきたわけでしょ? とりわけ内的生活なんて想像もつかないですよ。だから一人の人生が100だとしたら、グルなんて断片じゃなくちゃいけないんですよ。人は、人生の偉大さ、大きさをこそ信じるべきで。グルが自分より大きな断片になってしまった時に宗教が始まる。
土 最初から、そうなんでしょうか? それとも途中から変わっていってしまうんでしょうかね?
那 断片を全体にしてしまった時に、変わってしまう。
土 ああ……
高 探求している間はいいんだけど、それを固定化した真実だと言ってしまった時に、カルト化していく。答えを得たと思っちゃったらそこでストップしてしまう。
那 最近、思うのは、スピリチュアル系の人がこういう修行をしたらこうなるとみんな言っている。ぼくも多少言っている。でも、それって何々に「ついて」の記述なんですよね。「それ自体」を表現したものは皆無に近い。例えば、ここにコーヒーがある。コーヒーとはこういうものだという記述はあっても、コーヒーの味を感じさせるような表現はほとんどないということです。一人の人間を見てみても「それについて」語る人と、「それ自体」になった人では天と地ほどの差があって、それ自体を感じさせるような人はほぼいないということですかね。問題は。肉化していないんですよ。だから社会的指針としての影響力を持たない。
高 だからそれは言葉によって説明するのは不可能ということでもある。それが唯一できるのが芸術ということになる。
土 そうですよね。
那 逆に言えばね、芸術とか、文学とか、コンテンポラリーアートでも何でもいいけど、そういう世界には良くも悪くも評論家がいて、審美眼がある人がいて、「これはまがいもんだ」とか「これは本物だ」とか、それなりの価値判断があると思う。相対主義ではなく、絶対的な軸のようなものが。好き嫌いの相対主義だけだと、文化は堕落するんです。今の日本はもろにそれですよね。「私が好きなんだからいいじゃん」で終わり。でも、それは横軸でしかないんです。成熟したジャンルには縦の絶対軸がある。ピアノとか、バイオリンでもね。例えばモナリザだったらこれは誰が見ても本物だと。事物である、宇宙である。じゃあ、スピリチュアル業界にそれがあるかって言ったらないわけでしょ?
土 そうですね。
那 だから何が本物でまがい物かっていう軸がない。そこに浅さがある。成熟していないから。逆に言うと、「それまがい物だよ」と言った時に、それを全人生賭けてやっちゃっている人もいるから言いづらいというのもあるんだけど。
土 わかります。
●具体的表現の中の変性意識
土 心理学的なアプローチとか、トランスパーソナルとかありますよね。それはそれで否定のしようがない。自分が求めているものがどこにあるのかなと考えると、特にスピをさまよっているわけではないですけど、家のことも忙しいくせにこういうことになぜ興味があるかというと、幼少期のとある体験があるんですよ。
父親が仏教の話とかする人で、今は認知症で話できないんですが、小さな時にその父親が台所に立っていたんです。それを見た私が「これはうちのお父さんだな」と。「この人はうちのお父さんだけど、ある側面では商店の店長」。でも、そういう意味ではなく、「うちのお父さん」「うちのお父さん」というレッテルを貼らないと「存在」って感じに見えちゃったんですよね。「うちのお父さん」というシールを貼らないと何かわからないものに見えた、人が。そういう感覚というのがちょいちょいあって、認知というものですかね。これって何なんだろうなって?
那 それはお父さんがそういう人だったのか、それとも自分の目がそういう風に世界を認識したのかっていう……
土 それはお母さんでも良かったんですよ。たまたまそこに立っていた人がお父さん。あれっ?っていう。この人は私のお父さんって存在でも、商店の店長でもないって見えてしまった。
那 社会的記号ではなく、存在そのものが見えてしまった。
土 それで自分で安心できるレッテルを一生懸命貼っていた。
那 それが俗に言う大人になる過程と言われるんだろうけど(笑)
土 そうかもしれない(笑)
那 社会的生き物になってしまう。
高 その辺の折り合いというのはついたんですか?
土 大丈夫です。子供の頃のことなので。一瞬、そうなるとか。子供の頃、目が見えていない時に、人は違う姿をしているだろうと信じ込んで、瞬きの瞬間を見逃さないようにやってみたりとか。宗教というか、何か、世界を認知する。
高 タモリじゃないけど、実存のゼロ地点。レッテルを全部剥ぎ取った時の存在それ自体というか。
土 ええ。
那 これが、これであるとか。水が、水である、とか。氷水じゃないよ、とか。ぼくなんか徹夜マージャンして、二十四時間集中して、頭てんぱった状態で明け方店出た時とか、今までと違う世界があったりしてね。存在それ自体が輝いているような世界がある。日常のレッテルとか条件付けがいつもより外れているから。子供の時はそういうのが強い。
土 そうですね。私も昔、カラオケで徹夜した翌朝とか、自分のために世界がある、みたいにまぶしく感じたりしてね(笑)
那 宗教的な修行というのもそういうのを意図的に作り出すのかもしれないけれど、日常の中でもままありますよね。アルパインクライマーが氷の絶壁と何日も格闘して、凍傷になって、ようやく登って見た光景とか。神々しい。宗教に限らず何でもある。
土 そうですね。昔、80年代とかって良くも悪くもアンダーグラウンドカルチャーっていうのがいっぱいあって、変性意識というかね、そういうのを求めて、カルチャーとしてやっていたと思うんです。
那 サイケ的なね。
土 そうですね、サイケに限定せず、感動というものも含めて変性意識を求めていたと思うんですね。80年代のアンダーグラウンドカルチャーは。それで今の若い人は何を求めているんだろうって思った時に、昔みたいに少ない小遣いの中からライブに行ったり、レコード買ったりしないで何をしているんだろうね?って知人と話した時に、それでスピリチュアル行ったりしているかなって話していたんですけど。
那 でもさ、アングラっていうのはある種カウンターカルチャーでしょ?
土 ええ。
那 80年代のバブルとかで、記号社会の価値が高まって、反動として「これ全部ぶっ壊したもんがリアルじゃないか」っていう、対抗文化だったわけじゃないですか? 昔のヒッピーとかもそうだったのかもしれないけど。じゃぁ、今って何にカウンターするかっていうと、現実もそんなたいしたことなくて。
高 最初から相対化されちゃっているから。
那 そう、若者たちにとって、否定したり、乗り越えたりする壁というか、それだけの魅力もない社会だから。だから、ぼくも思うんですよ。今の若い人って、そういう感性が鋭い人って、何が好きで、どういう所に生息しているんだろうなって。
土 そうですね。昔は仮にカルチャーを通して変性意識というか、違う世界っていうのを感じる機会があって、そういうのがなくなって、普通にテレビで流れている音楽ではそういう気分になれないものなので、それで何となくカルチャーを通した感動を通して変性意識に入るんじゃなくて、すぐに変性意識に入るにはどうすればいいですか?っていう感じで(笑)
那 すごいわかる。だから、端的に言っちゃうと、教養がないんですよ。まぁ、ぼくらも昔の人に比べたらないのかもしれないけど。
土 そう、だからお薬とかそういうのに走ってみたり。ものを知っているからいいというわけではないんですけれども、私たちみたいなカルチャー女子は詳しい男の子みたいなのが好きって感じで(笑)みんなミュージシャンにしろ何にしろ、いろいろな音楽を聴いて、耳を鍛えてみたいなところがあって。
高 今、教養って呼べるものがないんですよ。
那 だから、リアルが何かを感じられない。リアルな具体的表現に触れていないから。判断材料がない。
高 だから無我研ではそうした情報を提供すればいいと思っているんです。本物と偽物を見分ける判断材料がないとしたら。
那 これだけネットで情報が何でも手に入れられるように見えて、やっぱり、本物って自分でつかめないんですよ、最初は。
土 そうですよね。
那 これ、よく話すんですけど、昔は深夜テレビでタルコフスキーとかやってて、「八時だよ全員集合」見てた男の子が、何だこの映像は?ってなるわけですよ。カルチャーショックを受ける。驚きですよね、こんな世界があるんだって。そういう異世界、異物との出会いっていうのは自分では選べない。突き破るっていうの? ネットっていうのは、基本的に自分の思考の範囲内のものしかつかめないんです。自分でクリックするんですから。
土 そうですよね、結局いろんなところから様々な情報をたくさん得ているようで、自分とつながっているとこからしか。
那 そうです。だから、甲殻機動隊で「電脳」というキーワードがあるんですけど、人間にコンピューターを埋め込むことで意識が拡大すると。でも、それは拡がらないと思う。SF的な幻想としてはわかるけど。一人の人間にとって、世界を広げる情報というのは常に自分の枠の外から来るものだと思う。常にまったく意外な形で訪れる。意外な形でリアルが現れて、世界を拡げる。何で意外かというと、自分の外にあるから。自分の思考世界の外にあるから、「嘘?」っていうものがあるんですよね。こんなすごいリアルがあるんだ、とか。驚きっていうの? ネットからじゃなかなか難しい。もっとリアルな現実世界のつながりの中で、ふっと出てきたりする。他人との関わりの中でね。だから意外と今の若い人って、自由に何でも手に入れられるように見えて、手に届く範囲しかつかめない。そういう狭さとか浅さを感じてしまうんです。その狭さとか浅さは、その人の世界観そのものになってくる。当然、感受性も表現世界もその世界の中からしか出てこないわけですから。常に開いてあるというのは、手に届く範囲までが世界というネット的なものと反対に、未知なるものに開いてあるってことだと思うんです。
●村上春樹的世界観の弊害
那 今の若い人はある種のトラウマ論が好きですよね。
高 今のテレビドラマでもそういうのが多い。村上春樹的世界観というのが蔓延しているような気がする。
那 こういう過去があるから、今の至らない状態が許されていると言っちゃう。そういう人もすごく増えている気がします。これは中年の人にもたくさんいる。
土 アダルトチルドレンというんですか? 親に対してのいろいろなことを最後まで言っていて、今の自分を肯定するというか。
高 自分を正当化しゃってる。トラウマで。
那 特別な自我の履歴なんて大してない。みんな何かあるんだから。
土 でも、「私がない」ということって、普通に言ったら、とっぴですよね。
高 スピリチュアル業界で無我だと言っているけど、その無我もまた違う。だから難しいですよ。
那 ぼくはそういう人たちと会ったことはないけど、そういう人に無我って何かって聞いた時に、なんて答えるのかなって。自分なら「これだよ」(目の前のコップを指す)、「これだよ」と言うと思う。自分も「これ」と同じ。石ころやコップと同じと捉えられた時に無我で、世界で、構成物質のひとつとして捉えた時に、足が着く? 妄想の無我ではなくて、リアルな事物としての。
例えば、ぼくなんか麻雀やってるけど、「勝ちたい」とか、「やっつけたい」とか妄想が生まれるとリアルな流れとの分離が生まれる。でも、「自分は今こういう状態だ」と。「ミスった後だから苦しい状態にある」とあるがままを認識した時に流れに落ち着く。リアルにつながって、流れを動かすこともできる。だからだいたい勝てるけど、状態を測って、その中で正しい行為があるという原理的なものを感じているから。人より早く修正して、早く触れることができるから負けにくい。それは無我的な観念ではなくて、触れるものであって、自分も「これ」と同じくらいのところまで降りたところで、無我って感じ。その時、世界が地平線に向かって拡がっていく。まぁ、「こうやって勝ってる」とか、こういうことは自慢っぽいからあまり言わないようにしてるけど(笑)20年以上試行錯誤してきてようやく落ち着いた感じです。
ただ、最近ですよ。ああっと。常にこれくらいで落とせるなって。「無我」って言っても、それは大抵観念だと思う。ぼくは自己否定から入るべきだと思っていて、「おまえ、どうしようもないよ」って言われて震えてしまうような人はまだ全然だめだと思う。真実は同じだから、表現も同じですよねっていう人たちはたくさんいるけど、もし事物そのものになったら、絶対違う。最終的には同じこと言うんだね、と言う人はいるけどそれは違う。それは芸術になるんです。真実というのは究極の個性を通して表現されるべきで、ああいう風な宗教的ごたくにはならない。まぁ、こういうこと言うと人気ないというね。
土 でも、それを感じている人も潜在的にたくさんいると思いますよ。
高 でも、ずっと読んでくれているということは、土橋さんもそういう感覚の人なわけですよね。
土 いろいろ、似たようなジャンルの仕事もしてきて、たどり着いたのですが、興味深く読ませていただいています。
那 マイノリティがマジョリティになるためには、やはり普遍的な表現が必要になるわけですけど、アートとして表現することそれ自体は難しくても、表現されたものを紹介することはできると思うんです。だから、土橋さんはいろいろな引き出しをお持ちなのですから、ぜひ書いて欲しいんですよね。読者の方々の中にも、コンセプトに共感してくれる方がいたらぜひ寄稿していただければ、どんどん拡がってうれしいんですけどね。
●タモリはすごい
土 先月号で高橋さんの無我タモリの原稿を読んですごく共感したんですけど、タモリはすごいと思う。小学生の頃からファンなんで。
那 ぼくもタモリはすごいと思う。今はちょっと、業界の中で記号的存在になってしまった感じだけど。
高 日本の芸能界のど真ん中で、誰でも知っている人なわけでしょ? その人が実はそういうものを表現しているということだから、そういう見方ってなかなかしないじゃないですか?
土 うちの旦那はこういうの興味ないんですけど、タモリが無我だってって言ったら大納得で「だって、早稲田の哲学科でしょ」という一般人の反応なんですけど(笑)
那 具体的な影響力があると思うんですよね、ああいう人がやっていたというのは。あの番組を。芸人でも、俳優でも、スポーツ選手でも、新しいものを表現している人がいたらものすごく影響力がある。例えば、イチローとか、これまでと違う軸があるような人。社会と関係ないところで自分の軸がある。
土 そうですね。
那 潜在意識の上でもものすごい影響力があるからメジャーな表現者のスタイルというのはとても重要なんですよね。
土 イチローと松井なら、松井の方がそうだ、と言うイメージが一般的にある。でも、イチローの方が仏教的だと河合隼男からも言われていたし、どうなんだろうと。松井は全部の打席覚えていて、すべてわかっているとか言う人もいる。
高 イチローってどうなのですかね?
那 イチローはそういう人だと思う。社会性と関係ない天地の軸があって、その中を生きているよね。余分なものを落として、自由になってしまった人。
●無我表現の究極の形=キリスト
高 ちょっとブログにも書いたんだけど、「広島」とかの交響曲を作ってる佐村河内守って知ってます?
土 はい、最近、知人がはまっていて。
高 はまってる? よくNHKとかでドキュメンタリーやってますけど。
土 泣けるよーって。テレビ見ないので私はドキュメンタリー見ないんですけど。
那 最近、やたら出てるよね。ぼくも見ました。
高 あそこまで過酷な人生を送っていたら、ある境地に達しているかなとか。
那 今の時代にクラシックやるってたいへんなことじゃないですか?
土 そうですね。
那 クラシックってのは、トータルな世界観だから。トータリティというのはこれだけ相対化されて、多様化した世界で一つの世界を作るってのはたいへんなことだから、それで伝わるものを作るっていうのはすごいことだと思う。音楽的価値はわからないし、「現代のベートーベン」ってキャッチフレーズはちょっと抵抗も感じるけど。
高 ぼくはショスタコーヴィチとか、そういう系統と近いかな、と思ってる。すごい自分の中の抑圧と戦っているというのはわかる。ただ、自分の中のそういうものを非常に純化した表現になっているのはわかる。
土 知人も身内が衝撃的に亡くなったりして、いろいろ苦労した人なので、共感できるのではと。
高 そういうところで共感する人はもちろんいるでしょうね。
那 どんな形であれ、ああいうものが評価される、というのはいいことですよね。
高 それはそうでしょうね。交響曲が今の時代にあれだけ脚光を浴びること自体良いこと。
那 今の時代を汲み取って。
高 そう、時代を反映している。ショスターコーヴィチみたいな存在になるんじゃないかな、とか。まぁ、だから聴いてますよ。バイオリンの弦楽四重奏とか。
土 80年代カルチャーから、那智さんが書いてらっしゃるようにバッハとか、最近はそれになっちゃって、私も。
高 ぼくも90年代以降はリアルタイムではほとんど聴いてないので。
土 早川義夫とかは?
高 ぼくよりも世代前ですけどね。ジャックス(日本のサイケデリックバンド・早川義夫が所属)とかね。
土 この間、行ったんですよ。
高 そうなんですか、あの人は最近、活発にやっているんですか?
土 昔のイメージとは違うかも。すごいいいライブやっていました。
高 そうなんだ、岡林信康(フォークの神様と呼ばれた伝説的ミュージシャン)のもう一つ下の世代くらいですかね?
那 岡林さんと全然関係ない趣味の雑誌の仕事でたまたま一緒になって、何度か取材したことはありますけど。
土 あの人もキリスト教の家庭に生まれ育って、いろいろな矛盾を乗り越えて、今は何か別の境地でやってるんですよね?
那 そう、日本の民謡を取り組んだ独自の境地にたどり着いて、精力的にライブをやっています。
土 日本のキリスト教系の人は、賀川豊彦とか、あの時代の人たちはすごかったなって。
高 純粋ですよね。
土 大竹しのぶのおじいさんもキリスト教のえらい人みたいで。筋の通った人みたいで、だから大竹しのぶなんだっていうのが、そのラインで見るとわかる。
那 日本でも、キリスト教ってもっと再評価されていいと思うんですよね。
土 ええ。
那 なんでかって言うと、キリスト教文化って表現の文化じゃないですか? ミケランジェロにしてもダヴィンチにしても、何にしても。形にして表現していく。仏教って仏像とかあるけど、限定されている。
土 ええ。
那 無我って言っても、無我を具体的に表現したのがキリストであり、十字架であるという時に、仏教ってわりと、表現もしなくて、この世界から消えるみたいなところに行っちゃうから、空とかに無なっちゃうと、表現しない方向に行く。でも、無を有で現すのがキリスト教的な方向。だから、神的なるものを形にする時に、西洋芸術の根元は絵画であれ、文学であれ、音楽であれキリスト教から来ていて、それは日本をはじめ、キリスト教圏の外の世界をも覆っている。だから、キリスト教的表現というものを日本で意識して再評価すれば、面白いかな、とか。仏教的表現というのは宗教的すぎるから。
土 白隠さんの力の抜けた絵とか好きですし、親の影響か仏教がいいんだ、というニュアンスで来ていたんですが、ところどころで涙が出るほど感動したのってキリスト教文化なんですよ。
那 ぼくも最初、ロシア文学とかの影響でキリスト教が好きだったんですよ。でも、クリシュナムルティとか、仏教的な方向に行ってたんですけど、結局、キリスト教的な方に戻ってきた。表現の文化に。
土 賛美歌ひとつとっても、すごい。
那 だから無我表現っていうキーワードを考えた時に、これはキリストのことだったんじゃないかな、と思うようになったんです。生きた無我表現っていうの?
土 ええ。
那 右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、とか、普通、そんなこと言えるかっていう?
土 ええ。
那 アンビバレンツな形を生それ自体で表現してしまった。実在したかどうかはともかく。四つ福音書があるとしても、あれだけの短いエピソードが2000年世界に影響を与えた。まさに神の受肉なんですよね。だから、究極言えば、キリストなのかなって。
高 一番純粋な表現として。
土 なんで自分が、仏教が好きで、お釈迦様の本ばかり読まされていた自分が、キリスト教にきたのかなって思っていたんですよね。それでもうちの家は偏らないように、自分で何かを選択できるように、私は仏教系の保育園に行ったんですけど、弟はカトリック系の幼稚園に行ったんですよ。弟が持って帰って来る聖書とかもすごい読んでいて、二つの世界が小さい時から常にあって。そういう中で、仏教の我をなくすっていう、那智さんの本にあるようなそういうところまででなくても、なんとなく教えとして、道徳的な感じで仏教に触れてきて、ある時、ちょっとした付き合いで行った賛美歌の合唱だとか、山谷(日雇い労働者の土地で有名)のシスターがやっているNPO団体の無料の診療所があるんですが、そこに取材に行ったんです。
そこの看護師のシスターが、シスターの格好もしていないんですが、すごいにこやかな感じで、外国人なんですけど、日本で看護師資格を取って、ずっと山谷にいるんですよ。一応派遣されては来ているんですけど、10年くらい前、たまたま仕事でお話を聞いた時に、「山谷でシスターで奉仕」と言ったら、三拍子そろっている感じなんですけど、そういう表面的なもの一切抜きにして、すごい涙が出てきて。なんでかって言うと、まったく聖書とかを人に勧めないというんですね。もちろん、シスターですから、布教で来ているんです。「来てくださる方々に聖書を読みましょう、とは私は言わないし、この人たちからいろいろな神のことを学ばせてもらっている」と言うんです。「ここに来る人たちは紙袋一つしか持っていないので、正真正銘それしか持っていないので、私も一切何も持たないで対峙している」と言うんです。それで泣いてしまった。
那 マザーテレサじゃないけど、肉体的表現が神父さんとかシスターとか、ありますよね。
土 「置かれた場所で咲きなさい」の人にはそれを感じなかったんですよ。
那 わかります。ぼくもちらっと読んだけど。
土 私は山谷のシスターの方が感じたんです。それはいい人でしょって言われるんですね。シスターでボランティアして、アルコール依存症の人のケアでずっと活動してる。でも、それを抜きにしてもすごいというのをいずれ何か書きたいなと思っているんですけどね。もう、接点はなくって取材にも行ってないですし、ただ細々とちょっとした金額を寄付するだけでつながりを保っている感じで。私はそういうところでキリスト教文化に惹かれるんです。
那 キリスト教って枠組みを外したとこでのキリスト教の良さですよね。
土 そうなんです。
高 純粋な信仰ですね。
那 そこにすごいいいものが残る。
高 組織を取っ払った生の信仰。
土 賀川豊彦なんかも、そういう部分をどっぷり社会福祉の中でやっていた方なんで。
高 本当の意味で、社会とのつながりがあるんですよね。今のスピリチュアルにはそれがない。ビジネスでやっているだけで。
土 長崎の隠れキリシタンなんかもすごいなと思うんですよね。やっぱりあれは日本人の何かにヒットした。
高 日本に入ってきたキリスト教ってすごい純粋な形になってきますよね。賀川豊彦もそうだけど。ダイレクトな。そういうものがもっともっと評価されてもいいんじゃないかな。
那 原始キリスト教だよね。国家に守られてないんだからさ。弾圧されているんだから。
土 正教とかバチカンとか、わからないですけど、そういうものを取っ払ったところで、日本人の持っている良さ、琴線に触れて、そういうものがああいうキリシタンたちがいて、やっぱりびっくりしたみたいですね。ここまで頑なに信仰を守って弾圧されてもやってきたという長崎の日本人のキリシタンの態度に、本場の人が仰天していたというくらいのあれなので。
那 つまり、人の命より重いものがあることを信じている人たち。それはある種、民衆化された宗教だから、信じるものがあるという形で自我を超えたものを。
高 日本にとってはそれが天皇だったわけだれど。明治以降は。
土 そうですね。
那 だから、すごい個別の人間の命より価値があるものが導入されたということは、人間の精神を進化させる。そういう意味ですごく重要なことだった。今、ないでしょ? 自分たちの命とか、金とか家族よりも大事なものがあるかと言われたら、みんな答えられない国になっている。
高 保守的な人が言っているのは、国家を神的なものにしようという、ウルトラ右翼っていうのはそういう考え方。人間は超越的なものを欲するから。
土 国は大事にしたいと思うんですけどね。私は何とか。グローバル企業に侵食されたくないなというのがちょっとあるんですけど。どうでしょう、その辺(笑)
那 今、やばいですよね。TPPとか。明らかにやられているよね?
土 国民経済としては、国の中で雇用をやって、という考え方が必要なのかなと。小学校からグローバル人材になるために、みたいな感じなんですよ。
政治、経済談義が続く。
那 そっちの話になると切りがないので、今日はこの辺で。刺激的な話をいろいろとありがとうございました。