座談会 第40号 肉体でもって神性を表現した存在
2014 11/13 in四谷の某事務所にて
★ 編集会議出席者
・那=那智タケシ(ライター・無我研代表)
・高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)
・土=土橋ユキ(ライター)
・み=みきを(デザイナー)
●瞑想から立ち上がったその先に
高 今日のテーマは?
那 今回、40号ですね? 何か振り返る?
高 ということは、3年ちょい?
那 そうですね。
高 いろいろあったようで……
那 それほどないけどね?
高 そんなに人数は増えていないというか。土橋さんが途中で加わった。那智さん的にはどうですか?
那 40回やって? いや、別に軸はぶれていないと思うんですよね。やっていることは。変化球をあまり入れないで、奇をてらわないで、具体的な表現の中に価値を見出す。逆に言えば、表現されたものの中にのみ真価を見出すというか。スピリチュアルな世界でふわーっと自分だけいい境地にいればいいんだという人達が多いようですけど、この肉体は何のためにあるのか、というアンチテーゼでもあった。それは自身の精神を表現するためにある。与えられているんです。芸術表現もまたしかりで、形而下で具体化されることで初めて世界に影響を与える力があるんであって、そういうものをまったく抜きにしてふわーっとなっても、君は表現できていないんだからまだだめなんだよ、と俺なんかは言いたくて。だから批判意識も最初はあった。全然表現できていないじゃんって。紋切り型の表現ばかりでそういうものが皆無だったから。与えられた情報を自分のものだと思っているから表現できない。さっき少し話してたダンテス・ダイジみたいな人は与えられたものではなく、自分の肉化された表現でもって、宗教的表現をしているということで評価したけど、そういうものはなかなか見当たらないから。
高 うん。
那 社会活動でも芸術でも何でも、エゴ中心でない具体的表現行為を発掘したり、自分で創作したりすることを試みる。そういう方向で情報を発信し続けたてきたって意味ではそんなに間違った方向に行ってないし、悪くなかったんじゃないかなって思ってます。
高 うん。
那 一定のニーズというか、読者数は少ないけれども、離れずに読んでくれている読者が200何人かいて。わかってくれる人だけでもいいよって。
高 スピリチュアルなお説教っていうか、そういうのは一番楽っていや楽なんですよね。ブログとかメルマガとかたくさんありますけどね。
那 表現として成り立っているものが皆無に近いということにまずびっくりして。みんな同じトーンでしょ? 宗教表現というものはもう死んでいるわけですよね。既存の仏典とか聖書とかはあるけど、もうそれを超えるものは出てこない。それを土台にした文学とか芸術はあるとしても、既存の宗教的表現はもう終わっていると僕なんかは思っていて、それではスピリチュアルに何かあるというと、人や自我に優しい表現ばかり。それが悟りというものにまで入り込んでいる。そういう中で、どう独自性を出していくか。より芸術に近づけていきたいという意識があって。芸術というのはオリジンである必要があるし、自分独自な関係性だから。その関係性を自我中心の関係性ではなくて、よりトータルな、等価的な関係というか。形式にまで発展させたいなという自分ではそういう意識があるけれど、そういう表現を評価していきたいなというのもある。
例えば、これは無我表現ですって言われても、違うよって僕なんかは思うんだけど、本人はなかなか気づけない。本人がなかなか気づけないところに自我というものの難しさがあるというかね。自分で書いたものでもボツにするのもあるし、そういう面で自分にも厳しくないと難しいというのは感じます。だからここは同好会ではなく、作品本位の場にしたいですね。
高 那智さんとは、ぼくとのキャラクターの違いもあるし、馴れ合いの場にはここはなっていないと思うし、それはいいことだと思っています。菊地さんのイベントなんかもあったし、人を集める動きも途中少しあったけれど、そこから何となく仲良しサークルという感じにはなってないしね。メルマガっていう発表の場が本筋であるから、それでずっと貫いているのはいいんじゃないかなって。もうちょっと共感者がいるのかなって気はしたけどね。スピリチュアル系の人も別に寄ってこないしね。あまりそういう世界も規模がでかくなっていない気がする。
土 リアルにそっち系の人に会っていないし、身近にいないんでわからないですけど。
那 ぼくもそうなんですけどね。それに瞑想なんかは一定の安らぎになるとか、心を休めるというのは大事なことだからそれはそれで認めてるし、自分も瞑想するし、ラリってるわけですよね。今回の小説でも書いたけど、公園で深夜に瞑想してこのまま朝までずっといたいなと思うけど、変質者と思われちゃうかな、とか。公園で座禅組んで朝までいたら怪しい人にしか見られないわけですよ。だから誰もいない山の上の神社の側にある公園で瞑想してるけど、ああ、このままずっとこうしてたいな、とか思いますよ。でも、それはそれ。そこから、どう立ち上がって、社会の中で表現していくかということが大事であって、そこにいることがゴールで大事なんだっていう人ばっかりだから、それは大したことないよって言うかさ。そういう、ちょっと辛口なね?団体というか、立ち位置になっていると思うんですけどね。
高 逆に、類似品というか、そういうものは出てきていないよね?
那 そこにオリジンがあるかないかですよね。ただこれは本物だよ、とか偽物だよっていっても何も生み出さないから。ネガではなくて、ポジの方向でよいものを紹介していきたいということでやるしかないんですよね。
高 心地よいとい思っている人にそれはだめなんだと言っても建設的ではないしね。
那 逆に言えば、それで救われた人もいるし、鬱から脱出したという人もいるから、それについてとやかく言う必要はない。
●余分なものを排除することで神秘が宿る
那 最近、タルコフスキーの「鏡」という映画を久々にDVDで観たんですけど、安くなったから買って観たら、日常の神秘がそこにあった。あの人は芸術というのは感情の高揚ではなく、精神を舞い上がらせるためにあるという哲学を持っていたのだけれど、日常の神秘の表現がそこに展開されていた。これは慰安や安らぎの感覚では絶対出てこないんですよ。徹底して厳しいわけですよね。余分なものを全部排除して、自分の関係性だけで世界を再構成することで、そこに神秘が宿る。瞬間、瞬間が神秘にある。ある意味、禅に近い。それはふわーっとした幸福感ではなくて、厳しさなんですよね。人に与えられた情報、イメージを全部排除して、自分のイメージだけで構成している。すると具体性の中に、葉っぱ一枚の中になぜか神秘が宿るというところまで持っていっている。表現というのはそうあるべきで、余分な垢を全部落として、純化していかないと、人間を超えられないというかね。俗を超えられない。聖なるものに至れない。そういう表現は宗教者でも芸術家でも厳しさがあって生まれるもので、安らぎじゃないんですよ、正直に言えば。安らぎというのは一定のプロセスとしてはあるけれども、そこから先はもっと厳しい道。そうしたことを提示していくというかね、表現していく。そういうことを宗教性とアートで結びつけてやっているところはほぼゼロだから、そういう意味では価値があるんじゃないかなって。
ダンテス・ダイジをなぜぼくが評価するかって言ったら、宗教性と厳しさが同居しているから珍しいなっていうか、オリジンだなってところで。伝わる人には伝わると思うし。「魔法少女まどか☆マギカ」をいいと思ったのは、これはオリジナルだと。折衷ではなくて、神や超人というものの具体的モデルを提示しているからアニメだからと言ってばかにしたものではなくて、新しいあり方としていい影響を与えるんじゃないかなっていう。だからそういうなんか、厳しく、美しい表現というか、純粋な表現。「マルテの手記」のようなものもあるけれど、それを現代の中に見出していきたいなと思うんですけど、いかんせん共感者がとれだけいるかということですね。
高 まぁ、仕方ないね。共感者を集めるためにやっているものでもないし、岡本太郎じゃないけどモダニズムとアヴァンギャルドでいえば、明らかにアヴァンギャルドだろうし。
那 ある種の宗教的アヴァンギャルドっていうか。日本だから許されると思う。キリスト教圏とかイスラム世界では許されない。イスラム世界では下手したら殺されてしまう。我々はそういう条件付けから自由な環境にいるわけだから、宗教に囚われず古今東西の無我的な表れを評価していくということができるという。
●キリスト――神性を肉体でもって表現した存在
土 精神を研ぎ澄ませて、そういう人が増えると、人類の成長につながるということですかね? するとどんな風な生活になっていくんでしょうね? 哲学とか昔からいっぱいあって、何かの場でしゃれたこと言えるとか、そういうためにあって、生き方や社会の仕組みの中に哲学が入り込んではいない。無我的なものも含めて入り込んでいない。生活と一体になっていないなぁと感じるんですけど。
那 俗な話するとね。ぼくはフリー雀荘にいて、こいつ自我強いなぁって奴がいるわけです。それは年齢関係ないんですよ。ああ、エゴの固まりみたいな打ち方してくるし、言動なんかもひどくて嫌なことしてきたりする。自我というものが凝り固まって、肥大化してこうなっちゃたんだなぁと。くっきりとばくちの場では見えてしまうんです。自分というものが出ちゃうから。人が悲しんでいる時に「よっしゃー」とか「どうだー」みたいなのもいれば、「すみませんね」と楽しく会話しながら打てる人もいる。お話しながら遊べる人もいる。でもそれは我というものを抑えて、大人の場として楽しんでいる。そういうのって、別にその、難しいこととか哲学でもなくて、自己中心的じゃなくて協調性があるかとかさ、話が通じるかとか、そういうこと。
70歳でも全然話せる人もいるし、若くても自分自身で凝り固まって、黙って打つプライドの固まりみたいなのもいる。麻雀好きなんだろうけれど、自信家で全然しゃべらない人間もいる。でもそういうのって、文化的土壌の中から出てきている気がするんですね。雀荘の場でろくでもないのは家庭でも仕事の場でもろくでもないと思う。顔見て一発でわかるんですよ。どうしようもないなって。俺だけじゃなくて、「あのおやじどうしようもないよね」とか、「あいつマナー悪くね?」とかわかるやつはみんなわかってるわけですよ。仲間内の麻雀打ちは。だから「あいつとは打ちたくないからこっちいく」とか。
そういう人間っていうのは、エゴを撒き散らしているわけ、たぶん。会社では弱いやつに当たるしね、まともな教育を家庭でできているわけもない。そういう人間を今までは、金もっているだけで評価しているような文化があった。高度経済成長の時代に生まれちゃったわけでしょ? 昔だったら、武士道とか美意識があったけど、自我文化が育っちゃったと思うんですよね。そういう中で、いや、これじゃなくてこっちじゃない?と。反動もあると思うんですけど、人間見て評価していくわけにもいかないから、作品や何かの中で見出していくという。単純に言えばそういうことで、自己中なやつが嫌いという。自分が別に自己中じゃないというわけじゃないけどさ。
高 それが格好悪いというかね。
那 そうそう。昔いた会社がそういう人がたくさんいる会社で社長が超ワンマンで弱い者いじめばかりしていた。自分は強いから負けてなくても、いい人で弱い人が被害者になる。黒いものをいっぱい見てきちゃったから、だから「悟り系で行こう」では悟らなくてもいいから、自己中なやつは格好悪いという文化を創ろうというスタンスで書いた。それを否定したいっていうのが正直あった。で、エゴを否定する物差しが日本に機能していない気がしたんです。単純な発想なんですよ。ただ、単純なことを言うためには、自分で自我を見つめて落とすとか、夜中に歩いたり瞑想したりして修行するとか、何かやっていないとそれはさ、自分がどろどろしたものを抱えてゆらゆら揺れていたら無我研も何もあったものじゃないから、ここでも言わないけどいろいろやってますよ。でも、それはそれ。それは重要なことじゃないから。こんな境地とか、神秘体験とか、こういう修行しているというのは言うべきじゃなくて、自分が何を言って、何を表現しているかだけで測られるべきだと思うんです。でも、みんなそれに至る方法論ばかり求めるから。辛口?
み いや、すごいためになる。何か、無駄がなさすぎてすごい。
那 軸がシンプルであればあるほどいい。自分は少し過激で、原理主義者みたいな変なやつと思われてもいいんですよ。だから続いているんだし。要は、幹だけしっかりしていればいいわけでしょ? 肉付けはどうとでもなるというか、いろいろな葉っぱや花が咲けばいいと思う。
高 土橋さんが言われた生活と結びつくものが何かあるのかと言った時に、究極は人間関係ですよね? いくら悟ったといっても、その人がどういう人間関係を築いているかという、そっちの方がむしろ重要なわけでね。
土 うん。
高 どうやって悟ったとか、どういうシステムで悟るとかいうよりも、その人が今何をしているとかとかね、どういう関係で人と接しているとかいう、そこのみなんだよね。重要なのはね。
那 だって、我々は物質世界で生きているわけだから。肉体があって、物があってという、現象世界に生きているわけだから。じゃあ、その現象が何のためにあるかって言ったら、僕なんか神性の実現のために存在しているんじゃないかって。現象世界で顕現するために我々は生きているんじゃないかって思うんですよ。愛とか、そういうものを。マザーテレサになれというわけじゃないけど、そういう行為の中に偉大さがあるんじゃないかな、と。こういう話はもしかしたらキリスト教圏の人の方が理解してくれるかもしれないけれど、キリストっていうのは神の受肉化として一定期間活動し、殺され、復活したと。肉化した神というものがこの地上に顕現した奇跡という神話に対して、二千年間の信仰が生まれたわけであって、肉化して、闘って、殺されたから彼は偉大なわけであって、単にキリスト的ないい人がいて、地元で何となく平和に暮らしましたではたぶん、人の精神に影響を与えなかった。彼は国に逆らうじゃないけど、革命家として行為したわけですよね、表現したわけです。自分を、全開で。それで十字架に架かったけれど、それも含めて神話になった。質的変容が人類の精神の流れの中で、一滴起こった。その変容が一つの波紋になって人類の精神史に影響を与え、二千年続いている。その質的変容は、イエス・キリストという表現者がいたから伝わっているものであって、それは仏陀も同じかもしれないけれども、肉体でもって表現するということが大事だということなんです。
高 イエス・キリストは別にキリスト教神学を打ち立てたわけじゃなくてさ、彼の人生そのものが一つの神の具現化だったわけですよね。彼の人間関係そのものが。どう生きたかという生き様自体が。
那 だから聖書というのは偉大な文学形式というか、質的変容した存在がこの地上に現れた時に、それを裏切る者もいれば、信仰する者もいれば、いざという時に逃げ出した者もいれば、おびえながら処刑する者もいるというバリエーションが生まれたわけですね。本質的実在に対して、普段は仮面をかぶっていい人で生きている税理士みたいな人もいざ本物を前にした時に、どうするかということを問われるわけですよ。究極の自分のあり方が。そこで本当の人間関係が出てくる。それが絵画になったり、最後の晩餐みたいな、神話の原型がある。そこには神がいなくてはならない。その神とは何かという時に、人間である必要がある。人間が神を表現したらどうなるかという時に、それがキリストであるということです。
高 関係性をも変えたわけですよね。革命をしたんですよね。神と人間との。
那 縦軸として降りてきたものが、横軸として拡がっていく。その波紋の様子が西洋芸術の原典になっているわけであって。面白いよね、そう思うと。
高 もう宗教の分野でそういう革命は起きないんじゃないかと俺なんかは思っているんだよね。だからもっと芸術が一番わかりやすいけど、後は生活そのものですよね。一人ひとりの。那智さんが関わった山谷の本とか、あそこに描かれている一人ひとりの生き様とかね。そういうものを紹介していくのは非常に意義があるんじゃないかな、と。
那 無我表現という言葉自体は固いし、ブログのタイトルでも使うのはやめたけど、そこはまぁ、コアな部分で我々が使うだけの言葉でいい。
高 何か言葉にはせざるをえないから。
那 そこはあくまで象徴的な物言いで。重要なのは具体的表現をメルマガでのっけるしかないわけで、資本も何もなくやっているわけで、収入も何もなく、みなさんのボランティアで成り立っているわけだから。無料メルマガということで。
高 この形自体が一つの無我表現ということで。
那 別に経済社会に生きているわけだから、需要があればお金をもらっても全然いいとは思うんですよ。何か別の形で有料にできないかと思うこともありますよ。これ以上やるなら生活にも関わるからね。でも、まぁ、今のところはこの形で続けて。
高 この形でどこまでいけるかという実験でもあるしね。
み 毎月、楽しみに読んでいるので無料で続けてください。
那 みなさん、がんばりましょう(笑)