第8号編集会議 AKBイリュージョン
AKBイリュージョンについて
3月10日 秋葉原にて 無我研編集会議
★ 編集会議出席者
・那=那智タケシ・・フリーライター 無我研代表
・高=高橋ヒロヤス・・弁護士・ウスペンスキー翻訳者
●AKBの歌詞は自我からやって来たものではない
那 今日はAKBの話をしてみましょう、ということで秋葉原に集まりました(笑)高橋さん、最近、すっかりはまってますよね。この間、映画も見に行ったとか。
高 那智さんが最初に言っていたから…。ぼくとしては冷ややかに見ていたのだけれど、どこかで一線を超えてしまったんですよね。いつだろう? 今はやばいですね。
那 ぼくは「あり」だと言っていたんですよね。
高 「あり」は「あり」だと思っていたんだけれど。
那 ただ全肯定してしまうと一年後くらいに後悔することになる。
高 そうそう、全ては肯定できない。ただ良いところは良いと評価するのが大事だと思うから。
那 俗の中に聖を見つけるのが無我研の方法論ですから。高橋さんの今回の原稿はプロデューサー視点で秋元氏を悟り系、無我的なところがあると評価していて、すごく面白かった。
高 ただ、彼のすべてを評価できるわけではない。良い人、とかそういうことではなくね。スタイルというか。
那 意識的な作家性の欠如とかを指摘したのは面白い。ぼくも感じていたことでしたが。
高 彼の歌詞は自我からきていないから。彼自身の体験をモチーフにしている感じじゃなくて、その状況で必要なものを反映しているというか。AKB自身もそうだと思う。彼女たち自身は空っぽ。そこにインプットしたものを一生懸命表現する。
那 自分の中心ではなくて、時代の中心にある普遍性をああいう形で表現しようという試みですよね。それが一貫している。
高 そうそう。
那 昔の歌謡曲的な流れの復活ではあるんですけど、阿久悠とか。それを現代的な形で上手くやっているなとか。ただ阿久悠と何が違うかというとそこまでわからない。時代が求めているもの、一歩先にあるものを表現したということでは同じかもしれませんが。
高 そうそう。
那 AKBの歌にはうざさがない。
高 作家性がないことや、メッセージがないことを軽いと言う人もいるかもしれないけれど、実は、その軽さの中に救いがあったりする。単純さというかね。
那 そう思います。重い、軽いで評価するのは時代遅れだと思う。
高 ただあの中に入ってしまうと、すべてを受け入れてしまうんですよね。それが危ういというか。あざといなぁと思って見ている人もたくさんいて、それはそれでもっともなんだし、ぼく自身そうだったんだけれど、ありだなと思って入り込んでしまうと全部素晴らしく見えてしまう。
那 アンチと信者(笑)この二極化が不思議ですよね。
高 そうそう(笑)
那 最近はぼくは離れているんですけれど。
高 ぼくも離れたいんですけれど、単純に人数が多いから、一人ひとり見てゆくとなかなか飽きない。
那 すっかりはまっているじゃないですか(笑)
高 こいつも面白いな、こいつも面白いなと思っちゃうと。
那 例えば、秦佐和子という人がいますよね。SKEに。謙虚キャラで面白かったり。いろんなキャラクターが出てくる。
高 キャラクターを出しやすい土壌があるというか。ただグループを離れてしまうと面白くないんですよね、彼女たち。
那 単体だと厳しい。何らかのイリュージョンがあるんでしょうね。AKBイリュージョン。
高 前田とか大島も単位でドラマに出るとオーラがなくなる。卒業して女優ですぐできるかというとそれはやっぱり違うと思う。相当な積み重ねが必要でしょうね。
●無我表現と悟りの関係
高 でも、AKBって残酷ですよね。総選挙とか、握手会とか。握手会では個別に並ぶレーンが違って、その並んでいる人数が人気のバロメーターになる。
那 それは精神的にもきついけれど、実際、肉体的にもきついと思いますよ。握手会は。
高 政治家の話を聞いたことがあるけれど、選挙の時は何千人と握手して手がぱんぱんに腫れ上がるそうです。すごいたいへんだって。
那 それもあるけれど、やっぱり邪気をもらうことになると思うんですよ。政治家のように不特定多数の人と握手をするのではなく、自分と会うためにやって来たものすごい数の人と握手をするわけですから。中には変な欲望を持った人もいるかもしれない。それは多感な思春期の少女なら敏感に反応してしまうと思う。体調を崩すのは当たり前です。
高 生き残っている人は相当タフかもしれませんね。精神的にも肉体的にもきつい。こういうことを少女たちに強いるのはどうかと思うけれど。
那 総選挙だって絶対つらいと思う。
高 拷問ですよ。AKBが無我表現だとやんやん言うつもりはないのだけれど。
那 でも、それでいいと思いますよ。こういうところが無我的だっていうのは意味があるんだから。
高 そうそう、全肯定する気はないけれど。
那 全肯定なら仏陀とか、キリストの話になってしまう。でも、そういう宗教的なアプローチはこの時代においては有効ではない。宗教が戦争とテロの土台になっているわけですからね。宗教それ自体の内には聖なるものがあったとしても、宗教的方法論はもう捨てるべき時なんではないでしょうか。知っている者と知らない者の二元化の構図というかね。グルイズム。そういうことをやっている人がいてもいいけれど、そのやり方を他人に押し付けるのはよくない。俗の中のこういうところが聖である、という新しい物差しが必要だと思います。AKBのこういうところがいいんだよって。スピリュアル系の人に言わせると、神にすべてを託せばいいんですよ、何をごちゃごちゃ言っているんですか、ということになる。ただ、そういう人ほど、神とか愛とか語りながら具体的表現が見えてこない。本当に悩み、苦しんで絶望している人に定型の言葉なんて通用しない。肉体は、愛の表現のためにあるわけですから、生きた人間関係の中で、その瞬間にしかできない表現というか、しゃべり方、微笑み方というのが表現で、神と一つになれば幸せです、何でわからないのか、と呪文のように言い続けるのは愛がない。
高 それはある種、言葉の暴力ですよね。
那 そう、暴力なんです。
高 飢えている人の前で聖書を振りかざしているのと同じ。
那 俗の中にも光るものはあるよ、素晴らしい人もいるよ、と。まったく新しい光が必要なんじゃないかと。暗闇に届く光。それが慈悲というものでしょう?
高 まったくその通りです。無我表現というと、悟った人の表現というニュアンスが感じられるけれど、そうではなくて、期せずしてそういう表現になっているってあると思うんですよね。AKBもそうかもしれないけれど。
那 宗教的な方法論というのは、実は一番安易なんですよ。レールがありますからね。誰でもそれっぽいことはできる。小仏陀になれる。ぼくだって、そういうやり方が一番楽なんですよ。宗教がかるのがね。でも、そういうステレオタイプな方法論にぼくは疑問を感じているんです。2500年前の仏陀の方法がそのまま現代で有効なわけじゃない。仏陀が現代に生まれていたら、と想像することがあるんです。彼はまったく異なったやり方で自分が得た真実を敷衍するんじゃないかって。あれほどの天才ですからね。既存の常識に捕らわれることなく、ものすごく意外な方法を選ぶ気がします。
高 それは楽しい想像ですね。
那 ええ、とても。無我表現と悟りというものの関係を考えた時に、認識の強さがキーなんだと思います。無我的なものを見抜いて、正しいとわかる認識の強烈さ。ゼロか百で、百わかる、と。例えば、七年前に亡くなってしまったS君という極めて無我的な知的障害者の話を取材で聞いてきたばかりなんですが、本当に神様のような心を持っている人で、こういう人が「無我的」だと絶対的に評価できる世の中にならなくてはならないな、と。悟りというのは、S君の素晴らしさを無上のものとして認識する強さです。ゼロか百かで、認識できる。ただ、悟った人が百パーセント無我で生きているかというとそうではなくて、間違っても認識の強烈さで戻ってこれるということです。わかっているから。
高 無我的存在、行為と悟りは=ではないということですね。ただ=の中に悟りがあるというか。
那 元からピュアで天使みたいな人もいる。そういう人が悟っているか悟っていないかは別ですよね。ぼくの周りにもそういう人はいますし、霊格が高いというか、こういう人には勝てないな、と思うような人もいる。生まれた時から無我的で、それゆえにこの社会では虐げられてひっそりと生きている。ぼくはそういう人をこそ評価したい。あなたは素晴らしいんだよって言ってあげたい。ずる賢い人たちに囲まれて苦労しているのを見るとね。だから人を悟りに導くのは難しいかもしれないけれど、無我的な存在が正しく評価される価値作りをすることはできる。田植えみたいにね。それが結果的に悟り系の世界につながり、その中から悟りが当たり前の子どもたちが生まれてくる。そういうビジョンはありますね。相当なオプティミズムかもしれませんが。手作業をするほかないなって。
●何も引き寄せたくない
那 ところで引き寄せの法則ってスピ系の世界にありますよね。あれはつくづくおかしいと思う。だって何を引き寄せたいのって? スピ系とつなげるのがおかしすぎる。あれが単にビジネス系の心構えみたいなもので流行るんだったらわかるんだけれど。
高 エゴそのものですよね。どんなに巧妙に取り繕っても。
那 だから、お金持ちになれるブレスレットと同じですよ。気持ちでそうなることもある。そういう風に割り切るならまだいいのにね。例えばぼくは麻雀を打ちます。フリー雀荘でだいたい勝っていますよ。今年は正月から16回連続で勝って帰ったりね。場代を払って勝ち続けるというのは大変なんですが、それができているのは、ある程度流れが見えたり、流れを作ったりできるからです。でも、これはエゴで念じているから運が来ているとか、良い牌を引き寄せているとかそういうことではない。絶対的な気づきの量なんです。
最近強く感じるのは、気づきの決め細やかさ、深さ、広さといった量と行為それ自体が一致した時に、有機的で創造的な流れが生まれてエネルギーの流れがやって来るということです。そのためにはもちろん、エゴの動きにも気づいて落としていく必要があるし、全体のことも細やかに気づいて場と一体になっていなくてはならない。中心性をなくして全体となって行為するんです。それができている日は勝てるし、できない日はよくない。負けることもありますが、原理的なことはわかっているんです。だから今日は大丈夫、とかだいたいわかってる。勝っても負けても納得感がある。引き寄せっていうのは子供だましだというのもわかってしまう。運の流れが見えるから。もっと、きめ細かいものです。
高 結局、人は低きに流れる。
那 それで富を引き寄せて、仕事が上手くいっても、自分は引き寄せたくないですね。そんなもの。何を引き寄せたいのって? ぼくは何も引き寄せられなくて、社会から誤解と偏見の目で見られながら早死にしてしまったS君を評価したい。そういうことでしょ? ぼくは何も引き寄せたくないです。
高 真逆ですよね。エゴが引き寄せでしょ?
那 ぼくも成功法則のビジネス本とか、経営術のとか、ゴーストでたくさん書いていますよ。人脈作りとか集客とか、心構えとかね。それはそれでいいし、学ぶべきものもある。ただスピリチュアルと言われる世界でそれがやられているのを見ると、何か違うと思ってしまう。ぼく自身、無我研のやり方でそういう方法論をあえて適用していないんです。人集めとか、宣伝とかね。やり方は知っているけれど、ここはできるだけ地味にやっている。
高 それだからいいと思いますけどね。ただ、読者数を増やすのも課題ですが。
那 ある程度の影響力を持つためには、人数も必要ですよね。それはわかるんですけれど、ジレンマがある。ぼく自身、たいした表現活動もできていませんし。連載陣は良質の原稿を送って来てくれていますけれど…。
高 これは素朴な疑問で他意なく聞くんですけど、那智さんって麻雀勝ちたいと思ってやっています?
那 昔からやっているから習慣でもあるんだけれど、当然勝とうと思ってやっていますよ。ただぼくは麻雀がわかればすべてがわかると思ってやっていたんですよ。二十歳くらいから。真実があるんじゃないかって。どうやったら勝てるんだろう?と。絶対勝つという人もいるし。だから麻雀と人間関係と芸術の秘密に共通するひとつの原理が見つかれば、それが真実だろうと。それが理解できれば、自分は救われるな、と。悟りとかそういう言葉もなかったし、今でも本当はあまりない。本に書いただけの話しであって。早い話、わかんない地獄にいた人なので。麻雀は修行だったんです。
高 武道みたいなものですね。
那 麻雀をやっていて、意外とそういう人は多いと思います。最近、ようやく何とか見えてきた気がする。麻雀のいいところは、自分が勘違いしていれば、ちゃんとしっぺ返しが結果で現れるところで、ごまかしが利かないんです。だから「すべてがわかった」と思っても、「また違った」「また違った」で苦しむことになる。これを何十年続けてようやく、「ああ、こういうことか」くらいは何となくわかるようになった。今の麻雀はギャンブル性が高くてハンチョウ賭博みたいなもの。絶対勝つというのはなかなか難しい。でも、絶対的な原理はある。それが面白いんです。まぁ、全部美化するわけではないですけれど(笑)少しでも金を稼いでいるわけですからね。
高 言っていることは非常にわかります。ある意味、勝ち負けにこだわっていない?
那 いや、こだわっていますよ。勝ち続けなくては真実じゃないと思っているから。
高 ただ勝ち方にこだわっている。
那 そう、エゴ的に人を騙して勝つのではなくて、できるだけ自然の流れに沿って素直に勝ちたいと思っている。無我的に。昔はずるい勝ち方だったんですけど、できるだけずるさをなくしてまっすぐな強さで勝てるように打ち方を変えてきた。雀鬼の影響は大きいですよ。人を貶めるような打ち方をしない。いやらしさをなくして、素直に真っ直ぐ打って流れで勝ちたい。
高 無我的方法論で勝つ、と。
那 ただ、そこまでいけてない。ずるさに流れてしまうこともある。一つはっきりしているのは観念だけでは勝てない。現象に影響を与えて初めてリアル。だからウルトラリンパのK氏のことは尊敬していますよ。どんなに修行しても、実際の形而下の世界で何かを動かせなければ、観念でしかない。だから麻雀は自分の状態をチェックするツールだし、ぼくにとっては座禅なんです。何十時間ぶっ続けでもやれる。気づきの場として気づき続けている。ただ麻雀は自分の力だけではどうにもならない時もある。天運や相手の運気の要素があるから。そうした偶然性を平らにして吸い取って、そこから勝負しなくてはならないこともある。結果として100はない。自分が120くらいの力がある時で80から90くらい。ただネット麻雀はだめですね。あれは流れがないから。
●良いエネルギーは上から降ってくる
高 震災から一年経ちましたね。
那 ええ、本当に時が経つのは早い。激動の一年でした。
高 結局、放射能問題をはじめ、日本は何も変わっていませんね。
那 除染と言っても、結局、放射性物質それ自体を人類は消すことはできないわけで、どこかに移していくしかない。だから移染しかないのだという人がいますけれど、まったくその通りで、押し付け合いみたいなことになってますよね。ウランは一度燃やしたら一億倍の毒性になる。それが元の毒性に戻るのが十万年後とか、福島第一原発は百万年管理しなくてはならない、人も近づけないとか、そんなものに頼って電気を起こすとか、狂っていますよね。核のゴミをモンゴルに捨てるとかどうとか。最初の前提から間違っている。最初の最初からね。何十万年間管理しなくてはならない毒性のゴミが出るのが必然の発電システム。元からそんなこと人類には不可能なんですから。悪魔のシステムですよね。負の遺産を未来の子どもたちに押し付けている。
高 それでいて原発の推進派がまだいるんですから信じられないですね。海外は原発をなくす流れになっているのに、肝心の日本がまた原発を動かそうというおかしな流れがあります。
那 結局、数年先の経済という目先のことしか考えていないわけで、そういう大人たちを見ると空恐ろしいというか、悲しくなりますね。何と言ってよいのかわからなくなる。ところで高橋さんは被災者弁護団で活動をされているんですよね。
高 ええ、やはりそこでもいろいろと障害がありますよ。被災者にすべての領収書を提示しろ、とかね。めちゃくちゃです。
那 なんかね、こんなに駄目な国だったのかと、ほとんどの人が感じたんじゃないですか。いつの間にか、内部から腐っていたんだなって。
高 お手上げですよね。手を挙げている場合ではないけれど。
那 ここは一つ、ケーキでも食べますか?(笑)何か疲れていて甘いものが食べたい。頭の表面がぴりぴりと痛いんです。でも、意外とケーキの種類、ないですね。
高 出張に行っていたのでしたっけ?
那 ええ、一昨日まで三日間、兵庫の明石です。自分史を書く人の取材で、おばぁちゃんと丸三日話してきました。
高 そこでS君の話を聞いたと。
那 そう、大きなインプレッションを受けました。でも、疲れるんですよ。重い話をずっと聞くのは。
高 頭が痛いのは過労じゃないですか? 外で泊まるは緊張もあるし、疲れますよ。
那 それにね、泊まったホテルの部屋が悪くて、夜中に金縛りにあったんです。久々に。
高 ホテルに変な波動があった?
那 自分の状態が落ちている時になるんですよ。疲れている時とか。思春期とかよくなりました。ただ金縛りというのと違って、明らかに何かいるというか。霊的なものと波長があってしまうときがある。脳内メカニズムで説明できるという人もいますがちょっと違う。のしかかられるし、布団もぺらぺらやられるし。
高 ホテルってけっこうそういうのあると聞きますよね。
那 自分の状態がよければ弾き飛ばせるんですけど、状態が悪いとチャンネルが合ってしまう。そういう時に会うのは低次のものです。
高 那智さんはそういうの見える人ですか?
那 見えないけど感じます。場の雰囲気でおかしいな、とか、嫌だな、とか。あと、面白いもので、主観的に「いるんじゃないかな」なんて思うと背中がぞくぞくして本当に寄って来てしまう。主観と客観があそこはつながった世界なんです。思っちゃったらその通りに来ちゃう。いわく言いがたい原理がある。
高 幼い時からそういうのはあるんですか?
那 思春期から。でも、幼い時も白い光とか不思議なものを見ました。小さい頃は良きものと触れていた気がします。疲れている時に波長が合うのは良くないものです。残存意識なんてたいていいいものではない。思春期に頭が変になっている時は特にそういうのに悩まされました。
高 実は、最初に那智さんに会った時に、この人は見える人だな、と思ったんです。感じる人だな、と。そういう体質じゃないかな、と。
那 そういうのって説明しづらいし、主観的なものと交じっているから言葉にしづらい。ぼくも滅多に言いません。夢と現実の狭間で起こることだから。学生時代にオカルトマニアの友達がいて、こういう時に霊的現象みたいのに会うからよくわからないんだよ、と言った時に、「いや、それが霊的現象なんだよ」と言うんです。夢と現実の間で起こることが。
高 人によって敏感な人とそうじゃない人もいるから。
那 兵庫でそんなのに出会っちゃった。
高 その影響を未だに引きずっているのかも(笑)
那 でも、だいたい落とせる自信はあるんです。ただフィジカル的なものもあるから。
高 それはあるでしょうね。
那 気の本を読んでいるとね、邪気は足の裏から抜けていく、良いものは頭頂から入ってくると。自分の脱落体験とまったく同じことを言っていた。良いものが上から降ってきて体を突き抜けて、足の裏から抜けて浄化される。気も同じなんだな、と。だから病人の足元に立ってはいけない、とかね。病気になるから。原理的には同じところがある。勉強すれば面白いかな、とか。ウルトラリンパのKさんも同じことを言っていた。頭の上に貯金箱みたいな隙間をイメージして、呼吸法でそこから良い気を取れいれる。良いものはみんな上から来る。そういう修行も面白いかもしれない。
高 仙道とかね。
那 自分に体験があると、興味が湧くんです。こういう方向で修行するとどうなるのかな、とかね。
高 それはわかります。
那 今日は話がまとまりないですね。自分もあまりいけてない気がする。支離滅裂で。
高 使えるところだけ使ってもらえれば。ところでAKBの劇場のあるドン・キホーテ行ったことあります?
那 一年位前買い物には行きましたけど、その時はAKBという意識はほとんどなかったですね。やたらアイドルグループのポスターが貼ってあるな、くらいで。これがAKBか、くらい。震災の後に電池とか懐中電灯とか探しに行ったのかな。
高 さっき行こうかと思っていたけれど、寒いからやめたんです。
那 それじゃあ、今から行ってみましょうか。入れなくてもね。
高 聖地巡礼ってことで(笑)
那 やばいですね。
高 やばいです(笑)