対談・松本セイゴ

6月10日 新富士駅内の喫茶店にて

狙うは“メッシ(滅私)”効果?

那智タケシ(ライター)×松本成悟(農家)


●ドストエフスキーになろうとする人はいない
那 松本さんは農業をいつくらいからやられていたんですか?
松 親がやっていたんですが、ぼくは昔は勤めていたんですよ。十年くらい前から農業をついでいます。
那 どんなものを作られているんですか?
松 お米と桃です。
那 実入りがよいのは?
松 桃ですね。ただ儲からないですよ。
那 でも、ぼくの本を読んでいただいたことがきっかけで、こうして内城菌を手に入れるために静岡まで来ていただいたのですが、スピリチュアル系と農業って組み合わせ、ちょっと不思議ですね。
松 そうですね、なぜか・・・
那 松本さんはたぶん、絶対的なものを求めてきた人なんですね。生きるって何なの? とか。真実って何なのとか。どこか普通の人より切羽詰ったものがあったんじゃないですか。リアルというか。
松 そうかもしれません。
那 その絶対は、安易な自己啓発セミナーじゃ見つからない。
松 池田晶子さんってご存知ですか?
那 名前だけしか知らないです。
松 あの人の本を読むと、時間は存在しない、とか。死は存在しない、とか。突き抜けていて、那智さんの本と似ていると思いました。哲学者なんですけど、他の哲学者と違う。
那 そういうものに達した人は、絶対に自分の言葉を使っている。ワンネスとか言わない。だって肉体感覚で言ったら、そんな言葉出てこないもん。もっと、違う、何か、変な言葉使うんですよ。造語を作り出すというか。
松 ああ…
那 でも、みんな外から来た言葉を使う。今、流行のワンネスとか、アセンションとか、ぼくはそんなの知らなかったですよ。知らない言葉を使えるはずもないし。結局、観念じゃないですか、外から与えられた。それを上手くミックスして、いいとこ取りで、一つのスピリチュアルな体系を作り出す。外付けハードディスクをいっぱいくっつけて一つにする。
松 まとめ上げる。
那 そう、でもそれってみんな同じ言葉になる。機械なんです。リアルな人は絶対にそういう言葉は使わない。
松 バーナテッド・ロバーツって知っていますか?
那 右脳の?
松 それはジルボルト・テイラー。バーナテッド・ロバーツは修道女です。自己喪失の体験という本を書いている。ぼくも読んだことはないんですけれど、同じことを言っているような。
那 ああ、名前だけは知っています。その人の体験はリアルだと思うんですけれど、そういう人は特別じゃなくて役割を与えられた人なんですね。過度の苦しみとか、その反面としての光とか。絶望から脱するためにあがいて、日常から届かない所に届いてしまったとか。コントラストが強烈な人生、役割を与えられていて、そうなれ、と言われている。だからそういう人を崇めるんじゃなくて、そういう人は単なる役割であって、デフォルメされた人生なんです。だからそういう人みたいになろう、とか、目指すとかすると、おかしなことになる。光を使うのにエジソンになる必要もなくて。
なんでもそうだけど、役割ってあって。煮つまった形の人生を送っている人がいる。そういう人たちは実際に会うとアンバランスだったり、幻滅したりする。ぼくもそういうところあるけれど、いびつなところがあったりする。でもそういう人は、作品が良ければいいんです。つまり、その人自身になるというと麻原と同化しようとしたオウム信者みたいになってしまうんですけど、表現されたものをそれぞれが取り込んで、独自な形に発展させればいい。
芸術だって文学だってそうじゃないですか。ドストエフスキーも全財産をばくちですらなければ作品が書けなかった。毎回、破産するんです。結婚指輪まで売って。それでいてあんな小説を書いた。芸術家もスピリュアルも、どこか似たようなところがある。そういう人を神聖視する人はいるけれど、どこか違う気がする。作品だけを評価すればよいけれど、スピリチュアルな世界では、なぜか作品と人物が混同されている。ドストエフスキーの小説は好きでも、ドストエフスキーになろうとは思わない。デフォルメされている存在が、役者として位置づけられているだけであって、その人になろう、とか目指そうとか違う気がするんですよ。
松 なるほど。


●昔に帰るのは無理
那 ぼくはあの本では、普通の人間がこういう体験をした、というのを強調したかった。ちょっと暗い感じの内向的な、麻雀とかやっているやつが、自分を見つめていたらこういう体験をした。これは誰でも起きることだよ、と言いたかった。特殊な過去とか、特殊な運命とか、特殊な絶望とか、そういうものは極力薄めた。もちろん、たいして特殊じゃないけれど。結局、不幸な人だったんですね。精神も肉体も苦しくて、眠れない。
松 自分の首を切り落とす、という願望がブログにありましたね。
那 それは一番楽になれる願望。数学者が、難解な方程式に取り組んで答えがわかるまで眠れない夜を過ごす。答えがわからないから眠れない。それが十年、二十年と続く。たぶん、何かが足りない。どこか欠落している。そのピースを埋めたいがために、自力でなんとかしなくちゃいけない。そういうタイプの人間がいる。常に絶望や虚無と隣合わせで、それを他人にはごまかしながら、ぎりぎりの状態を生きている。だから寝れない。ぼくの場合、呼吸器系がだめで、慢性的に肉体的苦痛もあったけれど。
一見、五体満足で好きなように生きているように見える。けれども、そういう人は心も体もねじくれてくる。自意識も強くなりすぎて、鼻持ちならなくなる。ただ、これだけ苦しい思いをして、こうなったというのはただの自慢で、誰のためにもならないから。そういった特殊な部分は全部カットするというか、和らげて。基本的には、自我をただ見るだけだというのが最短の道だと言っているだけだから。
一番の問題は、悩んでいる自我じゃないですか。これが落ちればオールオッケーになるはずで、なぜ外を見るんだろう、と。それだけを示せればあの本ではいいかな、と思ったんです。苦しんでいる人はそれぞれ苦しんでいるし、それを語ったって自分語りだから。
松 この世界を救うためには、悟り系の人が増えてこないと、と書いてありましたね?
那 ぼくは直接的に人を変えれると思っていないんです。少なくとも、それは自分の役割ではない。勝手に探求している人は勝手に探求しているし、変わる人は変わるし、変わらない人は変らない。最初から素晴らしい人は素晴らしいし、菊地さんみたいに自然と一体化したパワーを持っている人もいる。そういう人は強いんです。ぼくなんかは後天的なタイプだから。元から野性の中にいるような人は圧倒的に強い。ぼくはたぶん、もっと底辺の笑えない人にささやきかける役割かもしれない。そう、扉を指示すことはできるかもしれない。ただ、変わるのは結局、個人の責任ですからね。
だから、一人ひとりを変えようとするより、「無我的」なものが格好いいという世の中にするのが悟り系のコンセプトなんです。これまでは金持ちとか、社会的成功とか、お宅拝見とか、ね。自我と欲望を満たした人が勝ち組という流れがあって、それを覆したいな、と。結局、行き着く先は原発事故ですから。真逆の価値観。早い話が昔に帰れってことなんです。ネイティブアメリカンとか、武士道とか、禅とか、無我的な価値はたくさんあった。それが「我」の世界観によって駆逐されてしまった。
でもね、昔に帰れって言ってもやっぱり無理なんですよ。だってね、それは言わば保守的な価値観で、後ろ向きの表現だからです。仏教にしても、何でもそうです。ヴィバッサナー冥想とか日本では目新しくて流行っていても、座禅を組んでも、後ろ向きの価値観。それをやることには確かに意味があるかもしれない。個人的にはね。でも、昔の聖人はこうだった、だから若いやつやれよ、と言ってもやるわけないし、世界は何も変わらない。
松 みんなが坊さんになるわけではない。


●新しい“格好良さ”が人に本質的影響を与える
那 過去のようにやれ、という人はたくさんいる。けれども、今まであったやり方ではたぶん、この危機的な状況は何も変わらない。原発から放射能は出続けているし、百万年管理しなくてはならない核物質もある。テロリズムは終わらないし、子供たちは死に続けている。とんでもない世界になっている。こうしたことをビビッドに感じていたら、何か新しい方法論を探るべき時期に来ていると思うはずなんです。後ろ向きの方法をただただやればいい、そうすればすべて解決、という人のアンテナをぼくは疑う。
悟り系は洗練された価値観ではないけれど。格好良くなくちゃ。芸術を例に取ればわかりやすいんですよ。印象派があったり、キュービズムがあったり、常に新しい表現形式が時代を動かす。科学なり、時代を踏まえた新しいもの。科学にしても新しいものが世界を動かす。まさかニュートン力学に戻れ、という人はいない。相対性理論があって、量子力学が生まれて、今は量子力学の中でも一歩進んだ研究がされている。潜態論というのもその新しい表現の一つなのでしょう。
だからね、人を変えるのは新しさなんです。仏陀の時代みたいに出家して、みんなで家を捨ててサンガを作ればいい、というのでは間に合わない。そういう人たちがいても、いいけれど、それは古き良きものを守る役割。世界を変える人々ではない。現代において、それを敷衍させるためには、その感覚を現代バージョンで新しく書き換えなくてはならない。そのためには人は、芸術家でなくてはならない。宗教家ではなく、スピリチュアル業界の人ではなく、ね。前衛的な芸術家。先に一歩行っている人ではなくてはならない。
でも、こういうことを言う人は誤解される。悟りというのは常に微笑んでいるとか、怒らない、とかそういうことではない。人類の意識を変化させるための、常に新しい、今のこの時代に対する答えとしての新しい表現形式を持たなくては。それを体現しないと人に本質的影響は与えられないし、社会も変わらない。仏陀というのは、そういう人でした。彼はあの時代においては覚者であると同時に芸術家で、だからこそ彼の言葉は影響があり、後世にも残った。でも、2500年前の表現だけで現代を書き換えるのは難しい、というか不可能なんです。
若者が格好いいと思えなくては新しい価値観にならない。人類の既存の価値の上に輝く魅力があるとしたら、それは格好良くなくてはならない。魅力がなくては。でも、もしも本当にそれを表現できる人がいたら、人はその表現に影響され、はじめて変わっていく。芸術でも、スポーツでも、農業でもいい。
例えば、サッカーのジダンや、メッシです。彼らが出てくることによって、サッカーをやる人の意識はすべて変わった。ジダンやメッシのようになりたい、と思うんですよ、みんな。彼らのような人格になりたい、金持ちになりたい、ではないですよ。サッカーの格好良い動き、体の使い方、表現を真似るんです。昔はテレビで見れなかった。でも、今は世界中の試合が見れるし、ユーチューブの動画なんかもある。誰でも今、世界で最先端の本物の情報をシェアできる。
ぼくはボクシングが好きなんですが、昔の日本人は「根性だ、ガッツだ、手を出せ」とそればかりで技術はからきしだった。「打たれても前に出ればいいんだ」というのが日本の昔のボクシング。でも今は、衛星放送や動画で超一流を見ているんです。試合だけでなく、練習風景まで。するとどうなるかというと、みんな真似をし出す。子供たちは格好良いと思う。それで飛躍的に技術が上がった。
メッシを見たサッカー少年は無意識でそれを真似する。すると劇的にレベルが上がる。今までの指導者がタイヤを引いて走れ、と一人ひとり鍛えるよりも、動画を見るだけで全然違う。そういうことがスポーツに限らず、芸術的分野でもあっていいし(ある種のダンサー、フォーサイスとかね)、宗教的分野でも、宗教臭を出さない形であってもいいと思うんです。格好良い形で提示できたら、それは一つの“メッシ効果”です。
松 非常にわかりやすい例えです。
那 それが一番人類の意識を変える、最速の、矛盾のない、自然な方法だとぼくは感じています。今までの宗教的方法は、グルがそれぞれのグループを作り、人に教える。それはそのグループ内では何かの意味があるのかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、そこにはやはり社会にコミットしていない。すごい閉じた世界ですね、スピリチュアルな業界って。びっくりしました。
松 確かにそういうところはありますね。時代は変わりつつあるということでしょうか。


●内部のものは表現されて始めて誰かに伝わる
那 悟った人が百人、山の中にいて、出てこないとする。そうすると世界は変わるかという話がある。ぼくはほとんど変わらない、と思う。スピリチュアルな業界では、変わる、という。集合無意識みたいなつながりで、ね。アセンションとかもみんなその手の方法論。肉体なき革命。
でも、ぼくらの肉体は何のためにあるのですか? 今、この手で、この体で、何かを表現するために肉体はある。母親が抱きしめるという肉体的表現をもってはじめて、赤ん坊は安心し、メッシが超絶的パフォーマンスを見せることで、子供たちは潜在意識から変わっていく。今はメディアの発達で開いた形でそれを見せることができる。内部のものは表現されて始めて誰かに伝わるんです。
だから本当は、ぼくは文学をやりたい。たいして才能ないのはわかっているのですが、新たな価値観でもって何かを表現したい。あるいは、才能のある人で、似た価値観の人を評価したい、応援したい。様々なジャンルで無我的な価値観が表現されるようになればな、と。それを無意識でやっている人は少なからずいるだろうし、それを明晰に評価できる場を作りたい。それが無我研を作った意味でもあります。
松 今の話で、いろいろと見えてきた気がします。
那 さっきのボクシングの話ですけど、超一流の選手の動きや練習を見ることで、本当に意識が変わった。昔は殴りあうのが美徳みたいなところがあったけれど、今は技術戦。サッカーもタックルしてカウンターみたいなことばかりだったのが、ポゼッションとかね。質的に違うひと握りの存在が世界を変えるんです。格好いいな、と思えた時に、それは努力する目標になる。それぞれの人間が自己実現をする時に、正しい努力ができる。今までは方向を間違えていた。だから戦争や核や、原発事故に行ってしまった。
聖人の言葉を繰り返す人がいます。それはそれで認めるけれど、今の時代はそれだけではだめだと。そういう人がいてもいいけれど、今の時代に通用する価値観にするためには、バージョンアップが必要。歌舞伎もそのままでもいいけれど、現代歌舞伎も出てくる必要がある。スピリチュアルとか、宗教の世界で、そうしたことにチャレンジする人があまりにいない。実は、ぼくはもっといると思っていた。本を出すまで知らなかったから。仲間みたいな人がたくさんいる、と。でも、全然違った。
ぼくは今のスピリチュアル本というのは読んだことはなかった。クリシュナムルティは読んだけれど、文学が好きだった。ゲーテとか、ニーチェとか、カフカ、キルケゴール、ドストエフスキー。でも、表現者としてそのレベルの人はスピリチュアルなんて業界にはいない。芸術的才能と覚醒の体験が融合することは難しい。それが両方ある人はまずいないんだな、とわかった。だからどうしても業界用語になってしまう。あるいは宗教用語。
このコンセプトはこうやって噛んで含むように話せばわかる人はわかってくれるかもしれない。わかる人はわかる。でも、ネットのコメント欄とかでやりとりする話ではないですよね。誤解が多いから。だからお礼を言うだけにしてる。それにしても、メッシ効果って今、話してて出てきた言葉だけどしゃべってよかった(笑)
松 わかりやすいですね。文章を読んで、教えられてこうしろっていうより、見て、そうなりたいと思ったら勝手にそうなろうとする。
那 子供たちは今、勝手にメッシの真似してますよ。えらい人から教えられなくたって、自分で勝手になるわけです。
松 そうなりたいと自然に思う。
那 自然に取り込むんです。強制的に、あるいは特権的に誰かから教えられるのではなく。自然に吸収するから本当の意味での自己実現になる。スポーツの分野だけではなく、もっと様々な分野でそういう人が出てきてもいい。でも、こういう話は、逆に言えばスピリチュアルな業界では受け入れられない。子供たちは受け入れているのにね。


●現象が自分を通過している
松 那智さんが体験されたことは、般若心経に書いていることと同じなんですか?
那 本当はあの本にね、般若心経のことを思い切り書いてたんですよ。ちょっと読んで読む必要なくなったって。同じだから。結局、五ウンが幻想であるとわかれば、空で、世界だと。これは本当のことが書いてある、と思って。びっくりしたけれど、もういいやって逆に読まなかった。そのくだりは書いたんですよ。でも、その時に般若心経は間違った経典である、という説が出てきていたんです。
松 そうなんですか?
那 要は、菩薩が阿羅漢に教えを説いているのはおかしい、と。上座部仏教の人が言い出した。つまり、悟りを目指して修行中の観在自菩薩が、シャーリープッタという仏陀の弟子の阿羅漢、つまり悟った人に教えを垂れている、という構図が間違っている、と。別に、そんなことは気にならなかったのですが、この手の本を出すということでナーバスになっていた時だったので、全部カットしてしまった。突っ込まれたら面倒だなと思って。だから文章の意味がよくつながっていないところがあるし、薄い本になってしまった。今にして思えば、出すべきでしたね。
松 仏教では預流果とか一来果とか、段階があるって言いますね。そういう段階はあるんですか?
那 ぼくは、あると思う。
松 あるんですか? 
那 理屈としてはあるのはわかる。般若心経は、基本的に「我はない」という預流果の認識によって救われた話だと思う。自分の本もそのライン。でも、その後に自我の残滓がどばーって落ちる体験があって、自我は他我だな、と。これは一つの段階ですよね。
松 そこが少しわかりにくいです。自我は他我というのが。
那 例えば、仕事で人から文句を言われて、苦しいと。これは自分だけの特別な悩み、苦しみに見えて、実は、これはいろんな所で起きているわけです。世界のゆがみ、ひずみがたまたま自分のところに来た。自分のものでもなんでもない。だから喜びも悲しみも、感情というのは意外と個性はない。深さはあるとしても。世界の至るところで悲劇があり、喜劇があり、悲しみがあり、喜びがある。現象が自分を通過している。自分の肉体を通して。だから自分の経験とか、感情とかというのは、蓄積ではあるけれど、それは「私」ではない。イスラム教徒の両親に生まれた子供はイスラム教徒になるわけだから。条件付けられて。それは実在ではない。
だから、今、話しながらも認められようと思っているとか、ちょっと今、いい気になっているとか、それに気づいている。それは起こるべくして起こっていることで、実在ではない。起こっては、去っていく。起こるのは仕方ないんです。自我は現象として必ず隆起する。ところが、「起こった」ものを実在だと思うから、みんな自分を特別視したり、えらく感じたりする。単に現象があって、消えていって、後は同じ。等価的。だから自我の起こる様を見てゆくと、崩れていく。自分は特別だ、という意識はまがいもので、屑だな、と。劣等感であれ、優越感であれ、それ自体がアンバランスなもの。見てゆくと、中身がないのがわかる。麻雀を打っていても、「嫌なことをされたから、やっつけてやろう」とか、「どんなずるいことしても勝とう」とか、自我が出てくる。自己中心性がね。ところがそれがあると本当に勝てない。全体の流れが見えなくなって他の自我とぶつかるんです。するとなぜかより自我が強い方が勝つというおかしな結果になってしまう。自我対自我だとね、悪い方が強いんです(笑)
一番良かったのは、麻雀でごまかしが利かないこと。これ(胸の中心)がない時が強いんだもん。流れだけがあって、それと一体になって戦っている状態が一番強い。自我では限界があるし、勝てないとわかるから。でも、ここでいう全体というのは、スピリチュアル業界でみんなが一つとか言っている観念じゃないですよ。もっとリアルなものです。観念じゃ、何も変わらないし、リアルに手が届かない。
松 神秘体験のことが本に書いてありますね。
那 神秘体験というのはある。おれは道端の石ころで、道の中央にある岩ではなかった。その時にすべてが等しい価値を持った世界にいるとわかる。ぼくと松本さんと、このコーヒーカップと、すべてが。自我はいろんなところにある石と同じ。
松 モノと同じ。
那 自我でも、モノでも、すべて同じだな、と。自己中心的な実在というのはない。それに気づいた時に、ぱーっと世界が広がる。ああ、こっちかと。でも、石ころはあっていい。端の方に転がっていれば、それは世界の一部なわけだから。
松 それを表現しようとした。
那 すぐにはしなかった。三年くらい、黙っていた。どう言ってよいかもわからないし。ただ解決したな、楽になったな、と思っていた。これでずーっと悩んでいたけど、あるだけじゃん、と。でも、それがゴールっておかしい。分母が入れ替わったとして、そこから肉体を通して何をするべきかという行為の領域になってくる。ぼくはね、たまたま仕事がフリーの編集ライターで、人様の本を書くことが多かったんですよ。ひと月、ふた月で人の本は一冊書いてしまう。でも、人の自己啓発的な本なんて書いていると、自分の体験の方が、情報として伝えるべきものだろうな、と当然のことながら思うわけです。ジレンマが出てくる。だからね、ある時、出版のあてもなく書き始めた。こういう体験をした人、たくさんいるのかもしれないな、とは思ったし、今でもそう思っている。でもね、たまたまぼくは本を書く仕事をしていた。だから書いただけです。役割かもしれないし、特別でもなんでもない。ただ、どうせなら、ろくでもない世の中だし、自己中心性を破壊するようなものを書きたいな、と。ちょっとラディカルな表現にしてね。自我が実在じゃない、ということを知っていれば、本質的に傷つかない。それが救いになる。


●コップは実在するか?
松 このコップは実在しないんですか?
那 (笑)。あると言えばありますよね。
松 量子力学や超ヒモ理論とか、突き詰めていくと素粒子はただのエネルギーになる。元々何もないところに。
那 何かが起こる場が在るでしょ。そこに何かが流れ込んでいる。そしていろんな形になったり消えたりする。このコップだって、千年後にはないでしょ。人間の感情も三分後にはなかったりする。永続的なものはないし、関連性の中で、形になっては消える。このコップは人間が意図的に作り出したもの。このコーヒーも意図的に作り出した。場のエネルギーを人間は形にしていって、そしてまた消えていく。結局は、仏教なんですけどね。量子力学も。
松 量子力学で、Wスリット実験というのがあって、電子を飛ばして、記録紙(スリット)を通り抜けていく。観測していると、粒のような状態になって当たる。観測していないと、波のような状態になって記録される。非常に不思議だな、と。観測するという行為が物質の形態に影響を与える。
那 結局、見るということ自体が何らかのエネルギーを与えている。見ていない時に月があるかというアインシュタインの話があるけれど、まぁ、それはあるでしょ。
松 ハイデッガーは独我論で、自分が見ている所以外は存在していない、と言いますよね。ああいう系の本は読んでも難しくて理解できないんですけれど。
那 つまり、認識はないということですよね。
松 ああ…
那 ただ、世界は在る。ただこの世界の拡がりを本当の意味で認識できるのは人間しかいないのかもしれない。認識の話になると非常に面倒なんだけれど、「見るものは見られるものである」というクリシュナムルティなんかが言っていることがありますよね。我という単位がないと、ひとしなみに物があるだけになる。世界が在るだけになる。他には何もない。真我も何もない。本当の自分もない。ただ世界だけがそのままに在って、それは常に新たな風な見え方をする。奇妙な予兆をはらんでいて、偉大さが感じられることもあれば、何もないこともある。それが神秘というものです。しかし、それを表現するのは非常に難しい。言葉がなくなる。
松 般若心経も同じようなことを言っていますね。言葉にできない般若の教えって。
那 ただ思うのは、それは曖昧だから言葉にできないのではなくて、明晰すぎて言葉にできないということなんです。
松 言い表す言葉がない。
那 つまり完璧な回答はある。ただその答えを記述する方程式を誰も見出していない。仏陀でさえ見出していないし、そういう風にできているかもしれない。何らかの形で表現している人はいるけれど、これが答えだ、という正確な記述ができないようにできているような気がする。それが科学式であっても、哲学的レトリックであっても、何でもね。
いろいろ聞かれるんですよ。見ている者は誰なの?とか。でも、それを直接的に答えようとすると、こんな風に饒舌にならざるを得ない。だからいつもは控えている。普通に一人でいれば、何の疑問も惑いもないのに、説明しようとすると曖昧にいろんな言葉を使わなくてはいけなくて、わかってないんじゃないの?となる。
だから説明うんぬんよりも、それを生きることができるか、より純粋になって、何かを具体的に表現できるかという勝負になると思う。
松 修行は意味がない?
那 いや、そんなことはない。ただ、ぼくの場合はいつも強制的なんです。悟りたい、とか修行しようとか、そういうのは一度もない。前向きに何か良きものに向かうのではなくて、どうしようもないからやっているし、楽をしようとすると、なぜかどうしようもない状態に追い込まれてしまう。修行したい人はすればいい。
松 心身滑落という体験をされていますね。
那 痛みの受容で、痛み、自我は自分のものではないとより強烈にわかった。段階の話に戻ると、認識の段階から、自我が多少落ちやすい状態になったってくらいです。節目、節目には強烈な体験がある。これですべてを手に入れた、という全能感さえある。けれども、その強烈さは持続しない。ただ、心身の構造が変わっている。それが少しずつ日常生活に反映されていく。段階はあると思う。ただ、段階を狙って修行するとか、それは興味がない。あまりぼくが何かを言うべきことでもないし。
松 この間、手を怪我した時に、誰かのために痛みを受け入れようと思ったら楽になったりしました(笑)
那 そう、タンスの角に足の小指をぶつけた時なんかね、快感だったりね。マゾ(笑)
松 禅とか、伝統的な修業方法についてはどう思いますか?
那 伝統的な方法はね、方法論としては優れているに決まっている。公案でも、ヴィパッサナーでも何でもね。基礎訓練にはなるんですよ。個々人の体力をつけるというか。それが自我を破壊する可能性がある。ただ、自己探求が目的の時代は終わった、とぼくは認識しています。
それぞれが基礎体力をつけながら、社会を変えるために何をしてゆくか。地に足を着いて、直接的に社会にかかわりながら、自我の外にあるものを表現し、他者と新しい形でつながっていく時代になると思います。