対談・高橋ヒロヤス

11月12日 虎ノ門 某事務所にて

対話 身心脱落体験

那智タケシ×高橋ヒロヤス


●三十年間苦しんだ病が治る
高 ところで、那智さんの肉体的な病気というのは、身心脱落の体験で解決しちゃったんですか?
那 不思議なものですよね、消えたんですよ。ただ心身の状態が最悪の時は少しぶり返すこともあります。何か大きなストレスを受けていたり、ひどく疲れていたりね。ところが、それを受容すると消えるんですよ。三十年間苦しんできたものがほぼ一日で消えてしまったわけですから。こういうこともあるんだな、と思いましたよ。ただ、あんまり病治しとかの方にいってしまうと、宗教がかってしまうというか。
高 でも、実際に起こったことなわけですからね。
那 自分は子供の頃から重い鼻炎と蓄膿症で何十年も睡眠障害でいたんですよ。二十歳の頃、それで蓄膿症の手術をしたんですけど、昔の手術というのは大手術なんですよ。今なら治療技術が進んで切らなくてもいいんですが。それから数年は良くなったんですけど、こういうものはぶり返してしまうんですね。ぼくの場合は鼻の奥の粘膜が腫れて呼吸が苦しくなった。それでスプレータイプの鼻炎薬に頼っていたんですが、効果はそれほど長くないので、眠っていても苦しくて起きてしまう。そんなこんなで十年ほどごまかしていた。ところが、なんともなくなってしまった。
高 「身心脱落」と名づけたレポートは読みましたけど。
那 手術の後遺症かどうかわからないんですが、数年に一回、ものすごい激痛がくるんです。顔が腫れて、救急病棟に夜中に二回、三回と駆け込んだことがある。一晩でですよ。痛み止めをいくら飲んでも激痛が治まらない。その後もバファリンを一日十錠くらい飲んでいたり。これは意味ないらしいんですが。それで、八月の末日くらいだったと思うんですけど、またその兆候が出た。鈍痛がきて、ああ、またかと思ってたんですが、もうこれは受け入れるしかないなって。マゾヒスティックに全部受け入れた。そうしたら痛みが痛みでなくなって、消えてしまった。翌朝、病もほとんどなくなっていた。こういう言い方は好きじゃないのですが、カルマが落ちたのかなと感じました。翌朝、自分の顔を見た人が、「なんかすっきりした顔してる」と言ったのですが、因縁がすとんと抜けたというか。
高 わかる、わかる。
那 そう、抜けてしまった。抜けたのがわかるんですよ。
高 それは心理的にも?
那 そう、心理的にも。精神の垢というのは、結局、悟りだ何だと言っても残っているわけですよ。自我と言う固形物が幻想だと知って、回りのものがひび割れて、はがれ落ちても、内容物は、オブラートの中にあるようにあるんです。いろんなものがある。また垢が溜まってくる。いっときは、なくなったと思っても。でも、その夜から抜け落ちるようになってしまった。


●滝のようにすべてが流れ落ちる
高 肉体的苦痛と精神的な苦しみが同じっていう認識はあまり聞かないですね。
那 痛みの受容というか、ぼくの場合は激痛に近い痛みなんだけれど、腹をくくって、これは自分の痛みなんだけれど、これだけ葛藤に満ちた世界であったら、必然的に痛みとか苦しみというのはこの世界に無数にあって、その一つを自分は受け止めた、責任をもってこれだけの分量を受け入れろということなんだな、と。自分の苦しみというよりは、まぁ、心理的には個人的不幸はないと思っていて、みんな不幸は同じだと思っているけれども、肉体的苦痛も同じじゃないかな、と思った時に、未来の子供の苦痛を受け取っているんじゃないかな、とか。
痛いとね、心が宗教的になるんですよ。何回かなっているんですが、のたうち回るような痛みなんです。鎮静剤をいくら飲んでも利かない。また来ちゃった、と思った時にむしろ受け入れることができた。だからこれは強制的に、おまえは悟りだなんだ言っていてもまだ中途半端だよ、と。気づけよ、ということで無理やり教えられたというか。
そうしたら、ああ、これは心の問題も全部同じだな、と。個人的葛藤というのは一見、あるように見えて、実は世界のゆがみ、ひずみをここ(胸)で受け入れて、溶かすというか。味わって。そうしたら今まではなかなか落ちなかったものが、滝のように全部流れていく。落ちていくというか。ああ、落ちちゃう、落ちちゃう、全部落ちちゃう。何も留まらないなぁ、というか。その時は本当にパイプの中にいっぱい詰まっていたものが、ざーって出るのがわかるんです。心地いいんですよ。圧倒的なシャワーみたいなものを一晩中浴びている感じで。
高 それは、肉体的にそういう感覚があるわけですか?
那 あるある。ぼくは体に軸を作るメソッドをずっとやっていたんです。正中線というか、体軸。高岡英夫さんの方法とかね。脱力して、筋肉を使わない立ち方とか。体を揺らして身体意識をいきわたらせて。ある種のヨーガですよね。超一流のアスリートとかは軸が通っていると思うけれど、素人なりに十年以上やっていたから、詰まっていたパイプの底蓋が外れて抜けたというか、ああ、通ったなと。構造が確立された。身体意識がこういう風になったな、と。こういう神がかった言い方は好きじゃないんだけど、天から浄化のエネルギーが降ってくるというのがわかった。自我は幻想という認識はあったけれど、自我さえ、最初からないな、と。葛藤というのは単なる世界のゆがみがここにたまたまあるだけで、他我という言い方しかできないけれど、そう思った時に、じゃあそれを全部受容して、受け入れて溶かしてしまうというか。そうしたら全部流れちゃう。パイプがつるつるになるというか、自我がつかまる場所がなくなる。落っこちちゃう。
フリー雀荘で麻雀を打っていると、人が嫌なことをしたりすることもある。賭場だからいろいろあるわけですよ。でも、前だったら「この野郎」とか、こんなのくだらないと思っていても、人間出ちゃうもんじゃないですか。点棒投げてよこされたら、ああ?となる。
出るんですよ、間違いなく。人間だから。嫌なことがあったら。でも、それが前よりも根付いてないから、すぐに抜ける。それは強みですよね。人よりも心が揺れにくくなっているから。それが湧き上がらないという人がいるけれどそれは違うと思う。絶対に湧き上がる。バカと言われたら、知らない人からバカと言われたら、ああ?ってなるのは当然だし。それが根付かないということです。
高 ひっかからないと。
那 前よりも明らかにパイプがきれいになったというか、底蓋が外れた感じです。だから、それで、本当に疲れていたり、その上いろいろとプレッシャーを浴びてて、ああってなっている時、状態が本当に悪いと詰まってきたりする。でも、じっくり受け入れて抜いてしまうと体も治っゃうというか。しかもそれは何と言うのかな、タイムラグがあって、後から治るんじゃなくてすぐに治る。ああ、不思議だな、体ってと思いました。
ヒーリングってあるじゃないですか。あるのはわかるんですよ。天から降ってくる浄化のエネルギーっていうのがある。でもそれは自分で自分を治すというか、心理的ブロック、抵抗を外して受容することではじめて自分の中に流れ込んでくるもので。もちろん、それを人に流すことができる人もいるでしょうけれどね。ただ伝授とか、ちょっとどうなのかなと思う。自我の濁った水が混じっていたら逆に危険というか。それによって必要以上に金儲けしたら濁るから。慈悲が濁ると思うんですよ。それで何万円ももらっている人は、ぼくは信用できないです。
高 ヒーラーが金を取ることの是非の話になりますよね。
那 人に試したことはないし、そっちの方向に行こうとも思わない。ぼくはゴーストライターの仕事をけっこうやっていて、何十冊も書いてます。だからいかに売るかというのはプロとして当然考えている。一発当てたいとかね。別に、そういうことに罪悪感はないですよ、あったらやっていけないし。人の本でも売れたらやっぱり嬉しい。でも、そういう視点で見たら、本とか出すんだったら、こういう体験は売りになるのかもしれないけれど、今はまだ気乗りしない。人が治るか治らないかは自分でもわからない。自分の場合は自分が楽になったっていうだけで。
それにこういう話はあまり人にしたくないんです。友達とかにこんな話をしても誰も信用しないですよ。親も信用しないです。自分も話さない。だからそれを文章の中で、こういう意味があってこうなったというのなら、わかる人はわかってくれるとは思う。某出版社の人と会う時にこの体験のレポートも持って行ったんですよ。でも、こっちの方向で行く気はないんですよ、と言った。悟り語って、病治したら下手をすると新興宗教になってしまう。


●自我は他我という認識
高 あのレポートは発表するんですか? いっとき、ブログでもアップしてましたけど。
那 いろんなジャンルの人が書くエッセイ集に寄稿してしまいました。締め切りを忘れていて、ちょうど分量がそれくらいだったので送ってしまった(笑)。眠らせておいても仕方ないし、それがいい選択だったのかはわかりません。ただ、病気で苦しんでいる人とかの参考になるとは思う。
高 那智さんが体験されたことは、『悟り系で行こう』とちょっと違う部分もありますよね。悟り体験と身心脱落体験は違う?
那 「私」は「世界」だったという認識の転換があるとして、「世界」そのものに肉体がなっているかという時に、もうワンクッションあるなと気づいたんです。それが禅の身心脱落という言葉とすごいフィットしたので勝手に使わせてもらった。禅の人から座禅もまとも組んでいないのにそれは違うと言われれば、別にそれはそれでいい。禅の人で今、どれだけの境地の人がいるかは知らないですけれど。
留まらないということです、生まれたものが。それが迷いも、全然滑り落ちるようになった。ただ、状態も悪い時もある。徹マンして三十時間くらい起きていて、嫌なこともいっぱいあった時に、ああ、落ちない、溜まっちゃったと。これは一回寝てリフレッシュしないとだめだなと。常に完璧じゃない。
高 不眠不休で生きていけるわけじゃないから(笑)
那 仕事で徹夜したりした時とか。フィジカル的なものも関係がある。でも、落ちるものは落ちるんです。多少時間がかかることはあっても、体の中がそうなっているから。それはわかっている。
高 わかっている、というのは強みですね。いずれは落ちるとわかっている苦しみなら、出口がある。
那 そう、出口がある。だから本来、人間に絶望はないんです。絶望的環境はあるかもしれないけれど、心理的絶望は存在しない。
高 自我を自分だと思っていると、救いがない。
那 ただ、さらに言えば、自我は自我でさえないということです。自我は他我なんです。それがわかった時、体が認識に追いついてくる。認識そのものが体になる。
高 そこがちょっと難しい。
那 例えば、タンスの角に足の小指の先を思い切りぶつけたとする。ものすごく痛いですよね。でも、その痛みは「あなた」かといえば、それは違う。心理的苦痛も同じようなものです。ところが、なぜか心理的苦痛だと人は自分のものだと思ってしまう。個性的な、特別なものだとね。苦痛は苦痛であり、苦悩は苦悩です。それは「あなた」のものではないし、ましてや「あなた」ではない。
高 それはわかりやすい例ですね。


●「それ」について語ることと、「それ」になることは違う
那 「それ」自体について語ることと、「それ自体になる」ということはまた別であって。ただ気づきとか、認識というのは第一ステップとして必要だとは思うけれども、それがゴールというわけではなくて、そこから先に自分自身が「それになる」という作業。「それ」になったら、形而下の物質というか、現象に影響を及ぼすような行為がなくてはならない。それが、まぁ、さらに言えば、表現、創造、「慈悲を形にする」と書いたけれども(スターピープル39号寄稿)、奥深いと思うんですよ。ステップが何回もあって。無限に創造、成長するのが人間の可能性というもので。
仮に「我」=「世界」となっても、じゃあ、あなたのいう世界ってのはどこまでか、と。宇宙の広さはその人の感受する範囲でしかない。高さ、深さ、繊細さ、感じるレベルというものがあって、当然、個性もある。そうしたら、日々地道に自分の世界、宇宙を広げていくしかない。ゴールなんてないし、あるわけがない。そういう体験をしたからと言って、リルケの繊細な詩や、ダビンチのような深みに到達した絵画を描けるような巨大な宇宙意識みたいなものがいきなり手に入るわけじゃない。そこを勘違いしている人が多いように思う。
さらに言えば、禅だったら身心脱落の後に脱落身心とならなくてはならない、とある。例えば、今、自分の感覚に酔っているとは言わないけれども、ああ、気持ちいいなと思っている。そういう風になったと思っている。それさえ捨てろ、と言うのが脱落身心。元に戻る。ある種の超人願望みたいな、ヨーガのクンダリーニの上昇体験とかね。それも全部捨てて普通の人になれというのが禅。もちろん、戻った後は何かが違うのだろうけれど。ぼくはそっちには行けないというか、行かない気がする。時代にフィットしていないと思うから。ただそういう体験にも無執着になるというのはあると思うんです。


●悟りの回数は問題ではない
高 悟りは一回だという人とそうでない人がいますね。
那 それは言葉の綾みたいなもので、最初の自我が破壊される認識は確かに一回だけれど、何段階も強烈な体験を伴う段階があるのは事実でしょうね。ぼくの場合は二段階目の脱落体験の方が恐ろしく強烈でしたから。でも、別段、数なんてどうでもよくて、何を表現しているかが重要だと思うんですよ。
まぁ、原始仏教的だと最初に預流果という気づきがあって、一来果という怒りが収まる状態、不環果という瞑想三昧の段階、その境地さえも、三昧の境地さえ執着しないのが阿羅漢果。四段階あると。
ぼくの感覚だと三段階。我がないという認識が第一段階だとしたら、第二段階は認識だけじゃなくて自我を落とさなくてはならないと。あるいは落ちる構造を体の中に作る。次に第三段階があるとしたら、おそらく「落ちた」とか気持ちいい境地も捨てる。完全な無心になる、みたいな。でもこれは芸術の道とは違う。芸術家というのは俗な世界、下手したらエゴの世界に片足を突っ込んでいなくては表現できないことがあって。だから三つに分けられるのかな。細かく厳密にすれば、三だか四だか知らないですけれど。一つ思ったのは段階があるな、と。
でも、それを自分の身体感覚でちゃんと言っている人はスピリチュアルな業界ではほとんどいない。ダンテス・ダイジとかは別にしてね。上座部仏教が流行っているみたいですけれど、あれはそれなりの整合性があるように思います。でも、これは今の時代にそれほど重要な話ではない。自己探求ですからね。世の中、放射能で汚れている時に、悟りとか神秘体験とか、こだわるのはどうなんでしょうね? 探求するのはいいとしても、それは愛じゃなかったりする。勝手にやればいいだけで。霊性の高さとか、波長のきめ細かさとかは、また別のレベルにあって、最初から無我的で素晴らしい人もいる。エゴの強い人ほど悟りなんかを必要としているわけですから。
だから「悟ろう」じゃなくて、「悟り系で行こう」って言っているわけです。これだけ病んだ世の中なんだから、何か新しい価値観を提出したいと思うけれど、みんなが悟りを目指すとか、ちょっと違うと思う。ぼくは苦痛で強制的にこうなっているだけで。ハッピーに生きていたら、たぶん、興味もないし、なってもいない。でも、こういう話の方が面白いのはわかるんですよ。引きとしてはね。
高 そうそう、面白い。
那 それはわかっているんですよ。でも、そっちにいったら無我研の意味がなくなるような。だからこれまではやらなかったし、避けてきた。悟りとかスピリチュアルとかじゃなくて、無我的価値観、つまり悟り系を世の中にアピールするのが狙いで作ったわけですから。メインではなく、無我表現の現れとして小出しにするのはいいとしても。
高 あえて、茨の道を行くというか(笑)
那 そう、でも、どうなるかわかりませんよね。読まれなくては意味がないから。
高 確かに。
那 今後はもう少しこっち路線もいいかもしれないですね。対談とか、座談会とかは読みやすいし。
高 みなさんのおかげで何とか5号まで続いているわけですし、来年は新しい展開を期して、がんばりましょう。