対談・たまちゃん 第1回

7月22日 西荻窪の喫茶店にて

根元共鳴×無我表現①

「1未満であることの大切さ」 たまちゃん×那智タケシ

た・・・たまちゃん 根元共鳴体験をした主婦>

スピリチュアルアーチスト

那・・・那智タケシ ライター 無我研代表


●自分の不満を埋めてくれるものとしての「完璧」
那 ブログはいつからやられているんですか?
た ブログは、なんだかんだで4、5年くらい前から
那 ああいう系統(「たまちゃんSOUZOU学科」)のものは?
た 今回が初めてです。今回の前に、探求中の生々しい日記みたいなのをやっていたんですよ。お化け怖いとか。そんな風にどんどん探求していったらどんどんどんどん変わってきたんですね。
那 お化けが怖い、ということは霊感?
た そう、いると信じてましたし、滝行とかやっていて乗り移られたらどうしよう、なんて思いながら、右も左もわからず、一生懸命やっていたんですよね。それである日、そんなのはどうでもよくなっていって、探求、どんどん内に向かうようになっていって、それを結局、覚醒というか何と言うのかな、根元共鳴と言っちゃうんですけど、そういのがあって、その後に書き出した文章を見ていた友達が、クリシュナムルティに詳しい人で、言っていることが同じになってきて怖いというか、気持ち悪いぞたまちゃん、と言って、そうなんだ、と。それで読んだりして。こんな人がいたなんて知らなかった、と思って。
那 体験先にありきで、後から・・・
た そうなの。後から本とか読んだりとか。
那 実践があって後付で知識を得た。それでそっち系の情報をもっと他のも見てみようとして今のスピ系業界を見たら、なんだこれは?と(笑)
た そうなの(笑) なんなんだこれは、と。私も根元共鳴ってある意味、死んだ、と思ったくらい、つらくて。最後痛くて。傷口に塩を塗る最強バージョンみたいな。今はわくわくふわふわ光輝いて、とか。おかしいな、私のしてきたことは間違いだったのかな、とか。ほとんど至福の体験。
那 甘口ね。
た 私がおかしいのかな、とか。
那 ぼくもね、そういう世界は知らなかった。勝手にやっていて、勝手に書いて、さて、いざ去年の三月に本を出して、同じようなことを言っている人もいるだろう、と期待して検索とかするじゃないですか。最初は同じことを言っているような人もいる気がした。でも、何かが違う。つぎはぎだから。でも、すぐにはここが違うとは言えなかった。でも、よく読むと自我が肯定されるようになっている。これは百パーセント何も変わらないな、とわかっちゃったから。
た たぶん、覚醒体験みたいな時に、自己探求ではなくて、自らいった感じではなくね、アクシデント的な体験の人が至福の体験とか。自分の欠けているところを埋めてくれる? 完全とか完璧とか好きで。自分の不満を埋めてくれるものだったり。私なんかは全然そんな風に思えないんだけど。
那 グルメと同じ。プラスアルファ。人生を豊かにするものとして悟りなり、至福の体験なりよくわからないけれども、カルチャーセンターに行くのりと同じで言っているだけであって。それに答えるような物言いをする人もいるけれど、そういうのじゃないじゃないですか? だからそれに飽き足らない人や、おかしいと思う人がぼくのところに連絡してきてくれたりする。そういうつもりでやっているわけではないのに、自分はこういう立ち位置になるのか、と。
た 新しい新興宗教の形として、ネットを通して人が集まっているのかもしれませんね。ほとんどの人が現実生活が上手くいっていない。仕事だったり家庭生活だったり。そういう人が救いを求めている。
那 現実世界で自己実現できないから、逃げ道としてね。でも、これを言っちゃうと面倒くさいでしょ? 何かありました? ブログで反応とか。
た ありましたよ。でも、徹底的にコメント返ししていたら、みんな怖くなっちゃったみたいで(笑)


●みんな「リアル」を求めている
那 でも、孤独ですよね。意外と理解してくれる人いないなってびっくりしている。楽な方にみんな流れるから。でも、たまちゃんのブログを見て、まともなラインでものを言っている人がいてくれてほっとしたな、とか。
た シャウト系(笑)ああいう反逆記事でも完全に自分に反逆しているんですよね、書きながら。黙っていられないというか。
那 探求って、若い時はどうだったんですか?
た 若い時は、肉体と感情は、小学校一年生くらいから違和感があった。
那 アウトサイダーだった。
た そう、どうしてこんなにみんなにこにこしていられるんだ、とか。不思議だな、とか。なんで人って生きてるのかな、とか。とっても忙しかったです。子供の頃の方が。頭がよく動く。だから勉強とか全然できなくて、ずっと空を見てもんもんと考えてたり。
那 そういう人は、自ずと探求せざるを得なくなる。だってその疑問が解けない限りは、幸福というかね、いくら仕事で成功して、あったか家庭持っても、だめでしょ?
た そう、だめなんです。一人立ちできないんです。自分できちんと、立っている状態にならないと。
那 つまり、この世界を信じている人と信じていない人がいる。最初から信じている人はそれだけでロスがないから、一見ハッピーに見えるし、深みはわからないけれど。若い頃はうらやましく見えてね。疑問なく試験受けて大学行ってる人が。そういうアウトサイダーっているんですよね。最初からこの世界を信じている人にとってはその疑問はわからない。
た 中学校とか、十代半ばくらいに、光に包まれるとか、完璧とか、そういう体験はしているんですよ。今のスピ系の論理展開になってしまうような。自分に力が湧いてくる、みたいな。そんなのは、あるんですよ。でも、そういうのに執着しなかった。
那 ぼくはアルピニスト、登山家の本を読むのが好きなんです。壮絶な体験の末に、ものすごい神秘体験をしていたりする。生きるか死ぬかですから。神々しいくらいの描写。彼らも光り輝いている。ところが山から降りると普通の人になってしまう。彼らもそれをわかっている。だからその瞬間を求めてまた山に行く。一回の体験を悟りだなんだとは言わない。
た そうそう。私の知り合いにすごい有名な霊能者についていた人がいる。義母さんの後くらいにブレイクした人。その人がどうもおかしいと思い始めた時に、私と会って。
那 本物っぽい人?
た 微妙。お金もものすごく取るし。
那 そのお弟子さんに対してなんて言ったんです?
た 自然に縁を切ったみたい。お金の問題とかで。でも、ブログのグルッポの仲間が6、7人くらいいるんですけど、みんなすごいいろんなことしてきて、びっくりしちゃうくらい。お金を払って、いろいろとね。
那 遍歴が?
た そう。
那 みんなリアルを求めている。麻原に求心力があったのは彼にはリアルがあるように感じられたからでしょ? 宗教学者の中沢新一でさえ騙されちゃうくらいの。リアルが多少はあった。みんなリアルが足りなくて、リアルに弱い。知識じゃリアルに適わないから。逆に言うと、それだけ何もない時代というか。そういうのを感じちゃいますね。
た 仲間によく言うんですよ。なんでそういう所に行ったのか、その根源を、絶対あるから探し出してって。なんで興味が出たのか。絶対そこに自分の権力があるはずなんですよね。こうなりたいとか。
那 動機とか、その根っこにあるものの方がリアルですからね。自分のエゴの本質というか。外にあるものではない。未知ではなく、既知。ここ(胸)にあるもやもやを直視して、理解するという。ここを解決しないと、ふわーっとした至福がお金を払えばもらえるとか、そこに行けるという、その発想自体が逃避というか。
た お手軽。傷つかなくてすむんですよね、自分がね。
那 たまちゃんのブログの中で自分の中の権力を見る、とかそういうところにすごく共感できたんです。でも、みんな見たくない。伝統的な方法の中には、それを見るやり方や近づく方法も残っていると思うんですが、今は正しく教えられる人はなかなかいないし、グル探しなんて時代じゃない。山門をくぐってもまともな人はほとんど残っていない。だったら自分でダイレクトに見る時代になっているんじゃないかって。日常生活の中で。俗な世界の方がものすごい修行の場になる。
だって、ぼくが一番勉強になるのは麻雀打っている時ですからね。嫌なやつもいるし、ずるいことしてくるのもいるし、たまに威圧するやつもいる。いろんなことがある中で、おれは今、こういう状態だ、と。常に気づきながら落としてクリアにして、戦う。静かに座禅するより大きな気づきがある。
た うん。
那 溜めないように落としていって、瞬間、瞬間、正しい行為が求められる。それを十時間、二十時間ぶっ続けでやる。すると全体的な流れが見えてきて、没我的になって全体を感じる状態になる時がある。それは観念ではなくて、ごまかしが利かないリアルなエネルギーがある。結果として証明される。ふわーっと至福とか言っていたって、感じられないし、行為できない。もっとシステマティックなリアルがある。だめな時には感じられないですけどね。


●「宇宙の根源って私だったんだよ」
那 根元共鳴について、どんな感じのものなのか教えてください。
た 一週間寝込んじゃったんですけど、頭が重すぎて。例えばディズニーランドで風船売りの人がいるじゃないですか? 百個くらいの風船を持っている。ああいう風に、人は一個ずつの問題を思考している気がするんですね。それが、その時にボンと破裂して、一個の風船の中に顔を入れているような状態になっちゃったんですよ。一個の風船になっちゃった。
那 一個の風船は破裂してないんだ?
た 小さいのが全部破裂して、一個の風船になって顔が入っちゃった(笑) それで、同じ思考回路で解決できるものだと気づいた。一つのもので。あれもこれもこうだったんだ、みたいな。その頭の組み換えに一週間くらいかかっちゃった。ぜーぜーはーはー、あれもこれもこうだったんだ、と。そしたら結局、一つの思考回路で全部シンプルになっちゃった。一気に。
那 原理が。
た そうですね。それで熱も出て、37.8Cとか。体感は8Cとか9Cくらい。
那 脳細胞の構造が劇的に変わったんでしょうね。それである種の自己欺瞞とか、誤った考え方、自己逃避とか、そういう考え方が見えてしまった。
た そうなんです。
那 人間がなぜ、逃避するのか。なぜ迷うのか、悩むのかというのが、一つの原理によって見えてしまった。それは一つ一つの風船がなんでこういう形になっているのかとか、構造をずっと見てきた結果、爆発したという感じ?
た たぶん、その中の一つを最後は、最初に爆発させたんだと思うんですよね。それが起こるちょっと前にね、ある人が私にきれいごとのスローガンみたいなことを言ったんですよ。その言葉に反論できなかった。否定できるものでもないんですよ、きれいなことだから。それがずっと自分の中でうずまいているんですよ。共鳴でそれを突破したようなことがあった。
那 ある種の公案。解けない謎を突きつけられて、強引に解いてしまった。
た その時は、本当にただ瞑想をしていたら、いきなりぐわんと来て、普通の畳の部屋だったんですけど、これはだめだ、心拍数がおかしいし、倒れるかもしれない、と。そのままベッドにはいつくばっていって、ばたって倒れたんですよ。その時にものすごい勢いで頭がぐるぐるして。そこから起き上がれなくて、うちの旦那に携帯で電話して、死ぬ、死ぬってうなりながら、「ちょっと聞いてくれる? 宇宙の根源って私だったんだよ、聞こえる?」って言った(笑)そしたら「何だ具合悪いのか?」って言って、帰って来てもらった。こっちは頭痛くて起き上がれなくて。そしたら旦那が帰って来て「ちょっと何やってるの?」って。私は死にそうな声で「宇宙の根源って私だったの」って。そしたらゲラゲラゲラゲラ笑って、「何だおまえ、早く寝ろ」って(笑)。でも、すごいびっくりしたんですよ。
一週間後に、他に誰かこういう人がいるかもしれない、これはおかしいぞって思って。そしたら意外や意外、それっぽいことを言っている人もいるし、って感じだったんですよ。
那智 旦那さんの反応が(笑)


●1未満であることの大切さ
た 私、ゼロの構想というのが今あるんですけど、面白いんですよね、すごく。ゼロってものはこの世にない。ゼロってもの自体はなくて、一に向かう道筋はあるけれど、ゼロはないという。
那 ゼロという記号はあるけれど、ものはない。
た そう、ゼロと名づけているだけで。その根源的な意識というのは1になりたいという。何というんですかね?
那 創造過程というか。
た そうそう、進むって感じ?
那 ある種、自然の原理。土と水と空気と太陽があって、それが花になる。ある種の全体性が、独自な形を、1なるものを生み出していく。この世界の原理としてそういうのがある。その1というのは、単なる1ではなくて、全体の結晶としての1。それは必ずまったく独自な美が伴う。創造というのは、個人的なものではない。より大きな何ものかを1に集結させる力。それを人間は持っている。
た そう、だから1未満であることが大事で、1になったら意味がなくなっちゃう。一瞬だったらいいけどね。爆発的に。その1未満であることを大事にしたいなって。
那 なるほど。
た 永遠なんだけれども。意識の中で一番強いのが探究心だと思うんだけれども。
那 開かれてあるというかね、固定化しない。ただし、人に何かを見せるためには、1にする必要がある。私が見ているものはこういうものですよ、と伝えるために1にしていく。それは答えじゃないから。
た だから、例えば芸術家がね、ゴッホのひまわりじゃないけれど、そのひまわりを持ってずっと歩いているようなのがスピリチュアル業界。これです、これです、これが答えです、みたいな(笑)何の芸術性もないっていう。
那 芸術家というのは作ったら破壊して、次に進むものだからね。ピカソにしてもなんにしても。
た そこがだから、真理を定義して看板を持って歩いているのを見ると、愚かものめ、と思ってしまう。おかしいですよね、ほんとに(笑)。頭痛いですよ。
那 厳しさがない。今、おっしゃったゼロの構想というのはある種、芸術の道に近いというか。真の芸術家は常に自己破壊というか、作ったものを壊してこだわらない。創造と自己否定、破壊は表裏一体で、それは固定化した安定感がないから、厳しさが伴う作業をしている。ただ開かれてあるというのは、解放感というか、1という記号ばかりのものに囲まれて安心している日常生活の中で、1未満でいるというのはある種、ハッピーであるかもしれない。ぎすぎすしないでしょ? 
た そうですね。


●ぶつかることもできない「ごっこ」な人々
那 エゴというものについてどう思いますか? これだけエゴというか、自己中心性が蔓延した時代はかつてなかったのではないでしょうか? おまえ、それじゃだめだよ、間違ってるよという気持ちで何か書いたりしているところもあるんですが。自己中だな、というやつがうじゃうじゃいる環境にあったこともあって。こんなやつばかりじゃ日本終わりだな、とか。世界見渡してもこういうのが増えてたらやばい、とか。そういうやつに向かって書いていたり。だから非難がましいと言われる。でも、今、心地よくちゃアウトでしょ。
た (笑)
那 大津のいじめの問題にしたって、親も教育者もだめで子供もそんな大人のコピーになってて、救いようがなくて、ぼくはワンポイント白にしちゃえば黒を白に変える可能性があるという希望を持っているんだけど。
た 私は主婦として結構記事を書いているんですけど、まずお母さんになった人は、無我じゃないけど、無我夢中で育児をしてほしい。それが唯一、声を大にして言いたい。きれいとか、そんなどうでもいい。それができていないんだもん。きちんと子供に向き合わない。子供を通して人生の本質を探求したり、体験できるとても大事な時間をおろそかにしてはいけない。
那 ぼくは独身だけど、それが大事なのはわかる。無我夢中ができていない。
た できていないですね。自分が楽したいから。ほとんど自分のことしか考えてないんですよ。勉強させるにしてもまず自分ありきで。生々しく子供を見ていないんですよね。子供って超リアルで面白いんですよ。もったいないなぁと思いますね。
那 自己中心的な親だと子供も似てしまう。
た そうそう。
那 この間、スーパーのトイレで、ズボンを脱いでお尻を出した小さな子供が、便器に触っちゃったか何かでお母さんにものすごい怒鳴られていて、自分の中のストレスや葛藤を弱い対象にぶつけていて、その子はきょとんとしていたけど、絶対その浴びたものが溜まっている。それが負の連鎖になるんじゃないかって。
た その感じだとね、まだそのお母さんはいい方で、ひと目も気にせず怒れたり。
那 そうなんだ。
た 一番怖いのはにこにこタイプなんですよね。ほんとに子供ににこにこにこにこして、子供も「はーい、ママ」と良い子の振りをしていて、裏でうちの犬を蹴飛ばしている。家族ごっこになっているんですよ。子供もわかっている。家族ごっこをしているって。ひどいなこりゃと思いながら。
那 ネットなんかの影響で記号人間というか、家族というのはこういうものだとそれを演じればいいという記号人間が増えているのかな。愛のかけらもないですよね、そうなると。1と1の間に溶けるものというか、つながる愛がないと人間ってどんどんいびつに病的にゆがんでいって、人間でなくなってしまう。鬼畜になってしまう。昔の日本は縁側で集まったりとか。
た 隣のおじさんに怒られたりね。
那 もっと昔でいえば禅仏教や神道に裏打ちされた日本的霊性のようなものもあったと思う。それが1と1の間のもの、媒介がなくなって、どんどん枯渇してしまった。だから1と1でぶつかり合うどころか、家族ごっこの話を聞くと、1と1でかかわり合うことさえしないという。怖いですね。
た 家族ごっこが多いですよ、最近は。争いごともできない人たちだから。


●本音を言い合って発信することが大事

那 たまちゃんの所に来る人たちはどんな人たちですか?
た 私のブログを見て、こんな厳しいことを言っている、と興味を持ってくれた人たち。いろんなことをやり尽くしてきた人たちだから、やっぱりそうだ、みたいな。
那 みんな女性?
た 男性も一人いるけど、遠いから。6、7人。今は楽しいですよ、すごい楽しい。昔の夕涼み会みたいに、親同士がぎゃーぎゃー言っている、あんな感じになって。みんな言いたいことをがんがん言って。ほんとおかしい(笑)。まったくそういうのをだめとしてみんな教えられてきた人たちですよね。自分をポジティブに書き換えましょうとか、相手を受け入れましょうとか、降参しましょう、とか。みんなそれで一生懸命がんばってきたんですよ。自分と違う意見の人も認めないと、とか。そんなのできるわけないじゃん、とか言って(笑)
だから、自分はこうなんだとみんなで言い合いながら、自分を見ていこう、と。まずは発信することが大事。本音を言い合って。
那 そういう場っていつくらいから始めたんですか?
た それが2月か3月、ブログランキングをやってから。半年くらい。
那 ちょうどいいくらいの人数じゃないですか? 二桁になっちゃうとたいへんでしょう? 最近、リンパの講座なんかで人に集まってもらっているんですが、6、7人くらいがちょうどいい感じする。
た 今度、うちの集まりに来てくださいよ。
那 ぜひ(笑)なんか、その激しいのりが怖いけど。