60号記念・特別座談会・渡辺充(KB会主宰)

2016年7月6日 四谷の事務所にて

禅における伝統・形式の良さと新しいアプローチの可能性

渡=渡辺充(KB会主宰)       

那=那智タケシ(ライター・無我研代表)

高=高橋ヒロヤス(弁護士・翻訳家)  


★渡辺充プロフィール
1950年生まれ。1974年東京大学理学部物理学科卒。三菱商事に入社。退社後、現在会社役員。
1980年から座禅を始め、2003年曹洞宗、原田祖岳禅師門下、佐藤正真老師より印可証明を受ける。
2015年、臨済宗、釈迦牟尼会、山本龍廣老師より印可証明を受ける。
クリシュナムルティとデビッド・ボームの対談集『時間の終焉』(コスモスライブラリー)を翻訳。
30年ほど前から、KB会(クリシュナムルティとボームの意)を主催。毎月一回、物理、仏教、座禅、クリシュナムルティの思想を分かりやすく説明する無料の会を開き、講義の模様をユーチューブでも公開している。

●デビッド・ボームからクリシュナムルティを知る

渡 高橋さんのクリシュナムルティ関連の原稿を読んだのがこちらを知ったきっかけです。
高 HPの?
渡 大野さん(大野純一氏 翻訳者 コスモスライブラリー代表)のところから出されているんでしょう?
高 コスモスライブラリーで、2000年ですか、もう16年前にウスペンスキーの翻訳本を出させていただいて。
渡 この頃大野さんとは?
高 全然お会いしてないですね。だからコスモスライブラリーのこの本(『時間の終焉』)は何年も前に購入させていただいて。
渡 ありがとうございます。そこそこ売れているんじゃないですか?
那 ぼくも持っていますからね。いつ買ったかは覚えていませんが。
渡 大野さんとは長いんですよ。20数年かな。
高 コスモスライブラリーを立ち上げる前ですか?
渡 そうですね。クリシュナムルティを一生懸命翻訳されていて。
高 覚醒のコメンタリーとか。あれはめるくまーる社か。
渡 高橋さんは弁護士ということですけど、私はね、弁護士の遠藤誠さん(注1)にずいぶんお世話になりましてね。

(注1)遠藤誠(1930-2002年 弁護士。帝銀事件弁護団や反戦自衛官訴訟弁護団長などを務める。連続ピストル射殺事件の永山則夫や、『ゆきゆきて神軍』で知られる奥崎謙三の弁護人も務めた。オウム真理教事件では、元教祖の麻原彰晃から弁護を依頼されたが、「無罪を確信することができないから」と拒絶した。熱心なマルクス主義者であると同時に「現代の仏教の会」、「弁護士会仏教勉強会」を主催した仏教者でもあり、「釈迦マル主義」を自称した。(ウィキペディアより引用)
高 ああ、そうですか。オウムの弁護を麻原から依頼されて「無罪を確信することができないから」と断ったりしてね。
渡 帝銀事件とかね。
高 すごい方ですよね。
渡 そうそう。
高 伝説の弁護士ですね。
渡 彼から初めて仏教を教えてもらったんです。
高 へぇー、そうなんですか。
渡 昔は遠藤さんの仏教勉強会とかよく出てましたね。
高 そこからなんですか。
渡 それと同時並行的にクリシュナムルティをやったんです。
高 それは遠藤さん?
渡 いや、それはまったく別に。
那 それはいつ頃のことですか?
渡 30年ぐらい前だな。
高 80年代後半。めるくまーるの本が出てた頃ですね。
渡 そうです、そうです。『真理の種子』とか。私が元々大学で物理をやっていたので、それでボームの本を。その時、ニューサイエンスの本なんかも読んでいたのかな。それから、クリシュナムルティ。
高 すごいですね、ボームからクリシュナムルティ。
那 逆パターン。
高 普通、文系の人が、ぼくなんか『自我の終焉』とかそこからでしたけど。
那 ぼくは『瞑想録』でしたね。
渡 そういう流れです。

●貪、瞋、癡(とん・じん・ち)が自我を作る

渡 大乗仏教的には、さっき、どどどっと落ちていくという話がありましたね(那智の体験談)。平たく言うと我を落とせば、貪、瞋、癡(注2)ね。それが流れていくっていう。

(注2)貪、瞋、癡(とん・じん・ち)。仏教において克服されるべきものとされる三つの煩悩・三毒。「欲」「怒り」「無知」を差す。

那 我を落とせば、くっついているものも全部落ちますから。
渡 まぁ、そういう理屈なんだけど、実際にあれしてみると、貪、瞋、癡が我を作るんだな。
高 ええ。
渡 わかります? 理屈の上ではそうだし、それはそうなんだけど、だから何と言うのかな? そういう煩悩が我を作るんだな。だから、何て言うの? 我が煩悩をまた支えるという形を取っちゃうんだよ。
那 くっついてくるということありますよね。
渡 そう。だから、確かになければとんと落ちるんだけど、なかなかそうはいかないんだな。とういうのは、現実的にはそういうもんだよ。
那 生きるってそういうことですよね。
渡 起きちゃうんだな。それをだから何て言うのかな。
高 だから自我があるから貪、瞋、癡があるのではなくて、貪、瞋、癡があるから自我がある。自我っていうのは本来ないってことでしょ?
渡 ないんだよ。
那 実体はないということですよね?
渡 実体がないのはわかっていても出ちゃうんだな。
那 ある程度物質的にぼくなんかは捉えていて、「私」というのは、物質の現象で、枠がなければある程度こう、調和はありますよ?
渡 うん。
那 つながりは。ただ、実体という枠がなければ、姿勢によって崩していくとか、落としていくとか。身体的なものですけど。
渡 うん。
那 物質的に、波のように捉えていくことである程度、執着性というのかな、いろんな念とか、欲とか、あるいは特別に思われたいとか。
渡 はいはい。
那 そういうものが、粘着しているものがはがれて落ちてゆくというか、それは何だろ? ぼくは非常に物質的に捉えているんですよね。それこそ、「私」のものでもないし。物質があるだけ? ただ、その場っていうのは当然それぞれ場があって、調和して何か主体的な、創造していく場というものはあるわけで。枠が外れれば全体をこう、統合していく存在としての人間というのは認めていて、そこに創造性とか、アートとか、愛の形? 具体的な。観念的ではない。触れて、気づいてあげるとか、微笑んであげるとか、言葉がけとか、主体としての場はあって、それが自己表現とか、ぼくらが言うところの無我表現という自我中心ではない行為のことです。
渡 うん。
那 おっしゃったように、我というものが、特別な我、実体化した我というものがあることによって、調和が不調和になっていって、愛が消えていくと思うんですけど、それをある程度、何だろ? まさに等価に、このコーヒーと同じように、我というものを落とすことによって、ごたわらない? ここにくっつかないで、粘着性がはがれていって落ちるなり、横に流れていったりする。でも、無ではなくて、またそれを統合していく? 等価的に、全体を調和的に統合していくことによって、愛というものを。ぼくはよくキリスト教的な発想をしていると言われることがあるんですけど、愛を具現化していくという意味において、あのー、仏教的であると同時に、西洋的な発想というのかな。
渡 うん。
那 真逆のところがあると思うんですけど、どちらも人間の働き? 全体の中に入り込んでいく。あるいは等価に観ていく。それは東洋的なものの見方で素晴らしいと思うし、西洋世界にそれまであまりなかったものの見方だと思いますけど、両方必要だと思っていて。時々「私、こういう体験しました。悟り体験しました」的な人も来るのですけど、やっぱり自分の体験にこだわってしまう人が多い。それを表現できていなければぼくは認められないという立場です。表に表れ出たものしか評価しないし、その物差しでしか、波の上に現れ出たものしか、愛の形でしか認めないから。体験がどうとかね、そこで人を評価しない。
それが肉化していなければだめだと思うんです。自分がそんな立派な人間ではないのはわかってますけど、その程度の謙虚さというのかな? 全然できてないなら、ああ、おれ、今日全然できてない、とか、自己中なこと言っちゃったとか、それくらいのものの見方で自分のことも見てるし、芸術作品も見ているんです。現れ出たものが素晴らしければ、仏教もキリスト教も関係ないと思うんです。
(中略)
渡 だからね、すごく難しいのはね、やっぱりなかなか体験というのは、それに執着しちゃうとややこしいんだけど、わかりやすいわけだよね? 方向が見えるから。
那 それはそうですね。
渡 そういうのを一回した方がわかるし。それなりに人によって程度の差があるにせよですね、どっちの方向にどう向かえばいいのかなというのが見当がつくんだな。それは実感としてわかるから、それは非常に好ましい。ただ、なかなか禅僧なんかで、専門僧堂なんか行ってもなかなか上手くいかないんだな。また、そういう体験した人が上手くいくかというとまたそこに、おっしゃる通りひっかかっちゃってね。これまたね、何て言うの? 「悟り病」みたいになっちゃってね。非常にね、至上主義になっちゃうと、これまたやらしい雰囲気になっちゃうんだよな。
那 悟りとか、体験という断片に、まさに特等席を与えてしまうんですよね。
渡 そう。
那 落ちてない。それ自体が落ちなくちゃいけないはずなのに。その悟りという体験がどんなに素晴らしいものでも、このコーヒーと同じくらいまで落とし込んだ時に、人間じゃないですか? だからぼくは悟りよりも人間の方が大きいと思ってる。一人の人間より大きなものはないから。
渡 我が強くなっちゃうんだよな。難しいんだよ。
那 一なる断片を絶対化してしまうことによって、それが「我」にとって代わられちゃうということはあると思うし、よっぽど素晴らしいお師匠さんがいて、それこそ叩き出してくれる人でもない限りは、難しいと思うんですよね。
渡 そう。だから非常に難しいんだよ、そこが。
那 よく禅門をくぐろうとして、「仏」とは何ぞや、と聞かれたら「宇宙との一体化です」なんて答えたら叩き出されたとか。それっぽいこと言っても、「だめだ」とわかる人がたくさんいたわけでしょ? 昔は。禅の良さというものは、そういう厳しさの中にあったと思う。でも、そういうやり方は、今、通じるかというと殴ることもできないし、あまり言っちゃうと死んじゃっても困るし、難しいですよね? 今の時代に。
渡 結局ね、自分の境涯の問題になっちゃうんですよ。
那 境涯?
渡 何て言うの? レベルと言うか、深さというか、結局、そこに行き着くんだな。難しいところだな、さっきの逆ですよね。いい人というのはエネルギーをくれるんだな。
那 ええ。
渡 最初におっしゃっていたように、いい人と会っておくというのは大事なことだな。選ばないと。やっぱりね、悪い人と会うと悪くなる(笑)それはそうなんだよ。
那 わかります。
高 そうですね。
渡 クリシュナムルティが言うのは、wiseだからgoodなのではない。要するに、賢明だから善良なのではない。善良だから賢明なのだ。これはいい言葉だな、と。
高 そこで言われているgoodというのは、たぶん自我がないということでしょ?
渡 そういうことです。
高 だからエゴから出たものでなければ、それは善ということですよね。
那 中心点がここ(三人の中心)ですからね。ここ(私)ではなく。それは賢い行為。表現。
渡 そう。だからそういう人といるということが、すごくいいことなんだよ。
那 そう思います。ここに共感の何かが生まれるわけですからね。枠があるわけではなく。コミュニオンという言い方もありますけど。

●神秘体験の効果と危険性

渡 ひと月一回、メルマガ出すのたいへんでしょ? すぐひと月は来ちゃう。
那 そうですね。あっと言う間です。
渡 私もひと月一回やっているけど。
高 渡辺さんもね、KB会をやっていますからね。
那 ひと月一回やっているんですか?
渡 忙しい中、人来ちゃうじゃない? やっぱり気の利いたことも言わなくちゃいけないと思うとね。
那 期待されて来られる方も多いでしょうから。
高 もう何年くらいやられているんですか?
渡 30年くらいかな?
高 30年? 毎月? すごいですね。ユーチューブにも上げて。
渡 昔は原稿にしてくれる人がいて、毎月同じことばかり言っていて、お恥ずかしい限りで。元々はね、私は三菱商事にいたんですけど、某新興宗教に社員が3人くらい入ったんだな。それがけっこうマスコミに出たんですよ。遠藤さんのところに行っていたら、「渡辺さん、何か始めなくちゃいけないんじゃないですか?」と言われてね。
高 三菱商事から、その新興宗教に入った人がいた?
渡 そうそうそう。けっこうマスコミに取り上げられたんですよね。それでクリシュナムルティの読書会をやろうと。それがKB会の始まりです。
高 けっこう知識人のような人も入っていたりする。それはオウム真理教も同じですよね。うちの大学にもたくさんいましたけどね。
渡 どちらの大学?
高 東京大学。キャンパスに入ってきて。
渡 高橋さん、卒業何年?
高 卒業は1994年ですね。70年生まれなんで。ちょうどオウム事件の直前。
那 渡辺さんの後輩じゃないですか?
高 大先輩です。
渡 テレビで、朝まで生テレビかな? 麻原が決定的にだめだなと思ったのは、バグワン・シュリ・ラジニーシに似ているんだな。コピーなんだ。
高 まねてますよね。
渡 何か、変な椅子か何かに一人だけ座っちゃってさ。あれはだめだと思ったな。
那 一人だけ違う椅子に座っているんだ?
渡 うん。これはいかんはと思って。
高 でも、ああいうのにたくさんの若い人が引き寄せられていった。
渡 だから何か、それなりに力はあったんだろうね。
高 ヨガのある程度の修行みたいのをしていたんでしょうね。
渡 だから力は何かあったんだよ。青山弁護士だっけ、彼は腰が痛いのを治してもらったんでしょ? そういう能力があった。それで一発でひっかかっちゃった。
高 怖いですよね。
渡 特に、これから世の中のさ、役に立つような若い人たちがさ。
高 でも、あれも突き詰めてやるとエゴなんですよね。自分が悟りたい、ステージを上げたいという。
那 そこを上手く刺激してね。
高 刺激して入れてやっているんですよね。こういう体験が得られますとか。
那 あとやっぱり、生の体験って勝てないんですよね、いくら知識があってもね。やっぱり、こういう修行すればこういう体験ができるという時に、一度体験するとドラッグと同じで、地上の価値観が全部吹き飛んじゃうような。麻原はそういう体験もしてたし、それを教えるやり方も持っていた。それは悟りとは関係ないかもしれないけれど、ある種の体験を持っていて、それを味わわせることもできた。現代人なんて未だにイチコロかもしれないですね。クリシュナムルティを麻原は評価していたというけど、やっていることは真逆。
高 何でも取り込む。真逆のこと言っているんだけど。
那 クンダリーニを上げるとかね、あまり特殊なことはやらない方が身のためだと思いますけど。
渡 難しいところだよね、禅なんかもそういうメソッドは使うし。クンダリーニを上げるとかじゃないけれど。難しいところだよな。
那 まぁ、伝統あるメソッドには効果もあるし、お師匠さんが良ければね? 上手く使えば。
渡 そうそう、結局、その問題に行き着いちゃうんだよ。
那 方法論としては優れたものがあるのはわかります。武道と同じで何らかの型があって、日常から崩れた型をやらせることで、変性意識なり、何か優れた実証的なものがあるのはわかるけれども、使い方一つですよね。
渡 難しいところだよな。ある意味では、麻原彰晃と会っちゃったらああなっちゃったわけでさ。それも縁でしょうがないと言えばしょうがないけれど。
高 自分の中に何か引きつけられるものがあったんでしょうね。
渡 そうなんだろうなぁ。気の毒ではあるよなぁ。

●宗教者とスキャンダルの問題

渡 高橋さんは翻訳されていないクリシュナムルティの本もけっこう読まれているんですね?
高 今はコスモスライブラリーなんかでだいぶ出てますけどね。
渡 ラージャゴパルの本(『Lives in the Shadow with J.Krishnamurti』)とか。
高 あれは私が電子書籍で買って読んで。
渡 電子書籍なんだ?
高 アマゾンで買って読んで。でも長ったらしい本なんですよ。読む価値ないですよ、はっきり言って。
那 暴露本みたいな?
渡 そうそう。
高 冗長で、本当に読めるところが少なくて。
渡 高橋さんの原稿を読めばそれでいいのだろうな、と。
高 あれ以上のことは書いてないですよ。まぁ、あれをどういう意図で書いたかですけどね。おとしめようと思って書いたのかもしれないですけど。まぁ、実際、やっていることはそんなに悪辣なことをやっていたわけじゃなくて、まぁ、普通の男性ならあるわなってことですよね(笑)
渡 まぁ、そうだなぁ。
高 相手の女性がやっぱり、所有欲とか、嫉妬とか、いろいろ。
渡 たいへんだよ、女の人は。
高 クリシュナムルティも脇が甘かったんでしょうけど。
那 そういうことだよ、生きるってことは(笑)巻き込まれるんだよ。
渡 感心したのはさ、ああいう状況にありながらそんな会話(ボームとの対話)しているんだよね。それはたいしたもんだなっていうね。
高 確かにね。
那 あまり残さない人だったんでしょうね、当然。
高 彼自身にはまったく葛藤はなかったんでしょうね。
那 その瞬間はあるとしても、残らないんでしょうね。
渡 残らないんだろうなぁ。すごいなと思ったな。なかなかできないな。
那 現象世界というのは当然、女性問題があったり、お金の問題があったり、必ず巻き込まれちゃうようにできているから、そこを叩く人もいるけど、そんなの当たり前じゃんと思うけどね。問題は、それを残さないことで。
高 お互いに、関係性の問題だからね。
渡 でも、あれだよな、宗教者というのは女の人、寄って来るね。
高 (笑)
渡 私なんかにもね、ラブレターとか来るんだよな。
高 憧れみたいのを持つんでしょうね。
渡 一つのイメージを持つんだよな。
那 そうなんですかね。
高 悟った人とか?
那 地上にない価値。
渡 勝手に思い込むんだよな。ああいうの対応の仕方、難しいんだよ。
(笑)
那 間違っちゃうとね。
渡 ぐちゃぐちゃしているうちに離れていってしまうといいんだけど。
高 クリシュナムルティでさえ間違う。
渡 だから禅僧なんかでも、すごいスキャンダルが多い。
高 TMとかでもあるみたいだけど(笑) 
渡 TMって日本にあるんですか?
高 支部はあるみたいですけど。まぁ、ラジニーシなんかそれをおおっぴらにやった人ですけど。

●「いい人」たちが集うKB会

高 KB会は毎月やってらして、固定メンバーみたにいなっているんですか?
渡 かなり流動的で、よく来てくれている人もいるし。今、20人弱くらい。
高 インターネットで見て来たという人も?
渡 そうそう。今、出席したいという人が増えてきた。
高 増えてきているんですね。
渡 北海道から来たいという人がいて、来るなと(笑)用があってそのついでに来るのならいいけどと言ったら、ないけど行きます、と。でも、わざわざ来る必要はない。
那 何か切実なものがあるんでしょうね。
渡 それで翌日に奥さんと相談したら、行っちゃだめだと言われたって(笑)ほっとしたりしてな。
高 会員制ではないんですね。
渡 そうそう。ただ自慢じゃないんだけどね、いい人が来るんだよな。さっきのあれじゃないけど、不思議とこういう種類だから癖のある人が来そうな感じするじゃないですか? 来ないんだよなぁ。
那 真摯な感じの人が来るんですね。
高 純粋な。
渡 まぁ、メインが二次会ですから。二次会だけだと来づらいでしょうから、イントロみたいのをやっているようなもんですから。二次会は盛り上がるんだよね。勝手に盛り上がっている。あれはけっこう自慢だな。いい人が来る。こういう関係だからややこしい人が来ると思っていたらいい人が来る。
高 うちはややこしい人が来る(笑)
那 そうね(笑)(もちろん、いい人も来ますよ)
渡 入り込んで来るはずなんだけど、来ないんだな。
高 それはやっぱり宗教的な、ここに来たら悟れるとか、変なモチベーションを持った人が来ない。
那 仏教を真面目に学びたいという。
高 真摯な人が来る。
渡 二次会に出たいという人がけっこういるんじゃないかな(笑)
高 それはそれでいいんですよ。
那 そういう話も含めて、おおっぴらに話すことができる人って周りにいなかったりする。
渡 そうそうそう。ああ、そうなんだよ。若い人なんか、周りとそういう話はできないと言うんだな。
高 若い人も多いんですか?
渡 どこまでが若いかはわからないけれど、あまりいないって。
高 まぁでも、ないもんね。ネットとか見ても、ほんとにちゃんと真摯にやっているっていうね。
渡 普段の人間関係の中ではしゃべれないことをしゃべれるっていうのが嬉しいっていう人はいるなぁ。
那 そういうの大事ですよね。本音で話せる。一番自分が引っかかっていることを。
渡 そうそう。要するに、話すことが大事なんだよな。上手く言えないんだけど。周りで、いろんな人たちと話しているわけだよね、二次会で。それがすごくいいことなんだろうなぁ。たぶん。あまり教条的な話でなくてさ。そういう場の設定は上手くいっていると思う。
那 さらけ出すことでレスポンスがあって、気づくことがあったり。
渡 相手が聞いてくれて答えてくれる。
那 それが成長になったり。
渡 そうそう。それがいいことなんだろうなぁ、と勝手に思い込みをしているんですけどね。
高 やっぱり、禅とか、悟りとかに興味がある人ですよね。
渡 そうそう。見性体験持っている人もいるし、持っていない人もいるけど、全然そこに矛盾がないんだよな。
那 それが正しいと思いますよ。ほんとはね。
渡 誰も偉そうな顔しないしね、すごくいいんだよなぁ。
高 それは大事ですね。
渡 だから、講義は毎月憂鬱ではあるんですけど。
高 30年もやっていたらたいへんですよね。
那 引き出しがね。
渡 だから今はね、題材を募集してやっているんですけどね。最初は、『時間の終焉』を翻訳する前だったから、原書の読書会で始めたんですけど。
高 分厚くて読みでがある本ですけどね。
渡 まぁ、そんな自慢話してもしょうがないんで。
高 いえいえ。
渡 何か用意して行っても上手くいかないんですよね。
那 わかります。
渡 だから用意しないでいくのも苦痛でね。でも二次会になると盛り上がるんでね、またやろうと思って。片側通行は難しいですよね。
那 ちょっとやったら、後で自己嫌悪じゃないけど、何か偉そうに見えるんじゃないかな、とか。ああ、向いてないと思う。
渡 そうそう。

●「自我」はない、とわかっても「自我」は出る

高 この本(『時間の終焉』)を読んで、洞察によって脳細胞が変容するというのがすごいインパクトがあったんですけど。那智さんはどう思う、これは?
那 脳細胞がどうかはわからないけれど、認識によって、自我とか事物に対する認識が変わることによって、ものの見方とか、全部がひっくり返るということはあるよね。あるいはその、ここにくっついているものが、俺のものではないと認識することによって、気づくだけで落ちちゃう。
高 うん。
那 だからそれはある種、脳から何か出ているのかもしれないけれど、認識それ自体が身体を変えちゃうというのは、そういう言い方につながるかもしれないけれど、何だろ? 徐々に、ではなくて、一発で。ああ、俺ってノーマルだと思っていたけれど、ほんとはホモだったんだって気づいたら一発でしょ?(ぼくはノーマルですけどね)そこから人生が変わる。
高 ああ。
渡 うん。
那 そういう感じなの。認識によって生き方とか、ものの見方? その時、男性を見る目線が変わっていると思う。そういうのってあると思うし、強烈な認識が、身体の根底から変わるくらいの強烈な認識があれば、当然、脳細胞も物質ですからね、変容しているし、ある種の病治しみたいなこともあるかもしれないし、認識だと思いますね。最初の。ああ、自分は俺じゃなくて、世界だったんだと気づいたら、強烈な認識があったら、それはホモだったと同じ。自分が世界だと悟った。ホモだと悟った。それは体験でもないし、継続すべき状態でもないし、それは悟ったらそれで終わりですよね?
渡 うん。
那 だからそういう意味でぼくは最初の本を書いたのですけれど、その認識で自我の葛藤のかなりの部分救われちゃったというか。わーって混乱していたものが、俺はコーヒーなんだという時に、何だってとこで。そんな難しいことでもない。ただそれをどうやって表現するかというと難しいというか。どういうことなの?と言われたら、そういうことなの、と答えるしかないけれど、表現というのはそれこそ努力して、どうやって表現していくというのはまた別のベクトルで、修行しなければいけない道で、それこそ個人的には勝手にはやっていますけど、実現できているかはどうかとして。だから体験というか、認識じゃないですか。認識は一発でそういうことがあると。洞察という言い方でもある。
渡 うん。
高 認識、洞察で脳細胞が変容すると。
那 強烈な認識。
高 それが一発あると脳細胞そのものが変革するから前のものには戻らない?
那 脳細胞が変革するというと何か、神秘体験が継続している気がしてあまり好きではないけれど、でも、そういうことですよ。ホモだとわかったら、ずっと継続するじゃないですか?
渡 だからネットワークが変わるんだろうな。
那 それはそういうことですよね。
渡 何でもあるじゃないですか。数学でもなんでもさ、わかったって感じ。あれにたぶん似ているんだよ。
那 そうです、そうです。
渡 でもね、わかっても我が出るんだな。
高 ええ。
渡 これはたいへんなんだよ。すごいたいへんな作業。
那 でもその我っていうのは、前だったらもっとがっちりした枠があったものが、ファジーになっていたり、穴が空いていたりする。
渡 そうそう。
那 網戸になっているくらいの感覚はあると思うんです。
渡 それはあるんだけど、キリスト教で言うね、手は洗えば洗うほど汚くなるというか、粗が目立つんだよな、自分の。今まで粗じゃないと思っていたものがさ。
高 よく見えるようになる。
渡 よく見えるようになるんだ?
那 だからまだ修行が足りないんじゃないかとか、それはわかります。
渡 それはあるなぁ。難しいところだ。そうね、脳細胞が変わるというか。マインドフルネスとかも流行っているらしいけれど、それはそれでいいかな、と。

●禅は、形式があるから伝わってきた

渡 今、禅は年寄りばかりなんですよね。
高 若い人の関心が高まっているんじゃないですか?
渡 禅は年寄りばかり。いわゆる初期仏教とか、ビパッサナーとかの方が。
高 テーラワーダ?
渡 うん。千葉でやっているビルマのゴエンカさんのところに行ったら、10日間くらいやるんだけど、すごい若い人がたくさんいるんだよ。
高 渡辺さんも行かれたんですか?
渡 うん。しかも女の人がたくさん参加していた。ああいうのを見ると禅はニーズに対応していないね。
高 でもエッセンスはね。伝えられるものがあると思うんですけど。
渡 宗教臭さを取らなくてはだめなんだよな。
高 KB会で。
渡 飲み会だからなぁ。
高 まぁ、かっちりやるより本当はゆるやかなネットワークの方が社会にとっては健全かもしれませんよね。
渡 禅は年寄りばかり。臨済宗なんか漢文じゃない? やめてくれよなぁって。
那 公案とかもね、昔の例というか。
渡 とにかくね、禅の話で恐縮ですけど、だから西暦650年から800年くらい。これがピークになっているわけね。
高 ええ。
渡 その頃の人たちの体験を追体験するという、そういうもの。ものすごくトラッドなんだよなぁ。クリエイティビティゼロなんだよ。しょうがないって言えば、しょうがないけど。
那 そこが逆に売りみたいな? 師匠の体験をそのまま体験する。
渡 そうそうそう。
那 それを純粋に、次の世代に。
渡 そうそう。それでさ、公案なんかでもさ、それに著後(じゃくご)というか、詩をつけるんだよね。それが漢文の詩なわけだよ。何かね、骨董品屋なんか言ってさ、「いい茶碗ですね」とかそういう世界だよね。
那 公案を現代風に作れる力量がある人がいないってことですか?
渡 まぁ、そうなんだろうなぁ。
那 昔の話をありがたくね。猫を切ってどうとか。
高 茶碗を洗ってとか。
渡 よくできているといえばよくできているんだけどね。何だろうなぁ。
高 現代の公案というのは可能だと思うんですけどね、本当に力量がある人がいればね。でも、もうそういう時代じゃないかのかもしれないけどね。
那 そうだね。
渡 ただ公案システムはそれなりに機能しているんだけど、何かマニアックになっちゃってるな。
那 まぁ、そうでしょうね(笑)
渡 私は嫌いじゃないんだけどね、一般論としてはどうだろうなぁと思うけどな。100年は持たない。システムを変えないと持たないんじゃないかなぁ。
高 でも、形式が命みたいなところありますもんね。
渡 非常にね、見ていると簡単なのはね、だからいろいろいるわけ。盤珪とか。でも残っているのは臨済宗と曹洞宗しかないんですね。何で残っているかと言ったら、臨済宗は白隠禅師が作った公案体系を持っているから。だからすごく簡単な話ね、公案体系というのは何かと言ったら、問題と答えさえわかっていれば誰でも師弟になれるんだよな。わかっていようがわかっていまいが。これが伝わっていくわけだよね。
那 ああ……
渡 システムだから。それで誰かが、途中がぼんくらでも誰かがわかればさ、また生き返るんだな。
那 うん。
渡 臨済宗はそれでもってる。曹洞宗は道元禅師の「正法眼蔵」がある。要するに形式だよね。これで残ってる。だから形式がないやつはつぶれちゃうんだな。
那 そうでしょうね。
渡 クリシュナムルティなんかもなくなっちゃうんだろうな。
那 一人天才がいてもね。方法はないって言ってる。
渡 うん。
高 形式がないですからね。
渡 形式がないと残らない。
那 まぁ、残ることをそんなに望んでいないというか。
渡 まぁね。
那 その時の影響が何か、どこかで影響あればという人だったと思うし。
渡 ビバッサナーとか見ても、仏教にニーズがあるのはわかる。でも、今の既存仏教教団がそれを吸収していないということもわかる。まぁ、そんなことを考えてもしようがないんだけど、どうすればいいのかなぁ、とかね。
那 難しいね(笑)
高 形式を途絶えさせない限り、また復活するかもしれないというところですかね。
渡 難しいところだなぁ。今、数学的に自我がないということをやれないかなぁとか考えているんだけど、これからの時代においては、宗教臭さを取り除いた何か新しいアプローチが必要だと思います。
那 本日は、興味深いお話をありがとうございました。