アラスカ便り 第1回 アラスカ便り―北の果てに暮らす日々―
長岡マチカ(文化人類学を学び、現在、アラスカ在住)
『晩夏』
ひょろりと細長い柳欄の先に花が咲き始めると、夏も終わりと言われている。英語でファイヤーウィード(fireweed)と呼ばれる鮮やかなショッキングピンクの柳欄(ヤナギラン)。その英語名の通り、柳欄が群生していると、まるで大地が燃え盛っているように見える。
アラスカの夏は短い。柳欄を横目に、あっという間に通り過ぎていった夏の出来事を思い出としてしまうにはまだ早すぎると戸惑いながらも、前方には確かに冬の気配が近づいている。何度か立ち止まり振り返りながらも、ショッキングピンクの炎に背中を押されるようにして、あの長い冬へと一歩一歩踏み出していく。
9月に入り、柳欄の炎が消えるにつれ、落葉樹の葉が色を変え始める。アラスカの晩夏がショッキングピンクならば、アラスカの秋は黄金色だ。山々は日に照らされ黄金色に輝く。光は太陽から来るのではなく、木々そのものから発せられているのではないかと錯覚してしまうほど、空も大地も眩しく光る。
私が初めてアラスカを訪れたのも15年前のちょうどこの時期だった。アラスカ南西部の村々を回り、先住民ユピック・エスキモー(※)の人々の家に一ヶ月ほど居候させてもらっていた。黒い髪に茶色の瞳という日本人の姿はすぐに村の風景に溶け込み、まるでずっとそこに暮らしていたかのように、ツンドラへベリー摘みに川へシルバーサーモン獲りにと連れられて行った。夕方になると、今日はあそこで明日はこちらでと毎日のように集まりがある。その度持ち寄られた大量の食料がテーブルを埋め、踊り歌い陽気な声が夜更けまで響き渡った。
先住民の村々には必ずといっていいほどキリスト教会がある。そして教会の宗派によって、村の様子も随分と異なる。ロシア正教が入った村では女たちは皆スカーフを巻き、カソリック教会が入った村では土着のシャーマニズムの名残が少し見られたりもするといった具合に。18~19世紀にキリスト教がもたらされて以来、先住民文化は大きく変わった。
滞在中何度か教会にも連れて行ってもらった。私はクリスチャンではないけれど、親戚や友人に付いて教会へ出かけたことがある。村での礼拝には、それまで訪れた教会では出会ったことのない風景があった。
「今朝ここへ来る前、玄関先のデイジーにずっと見とれていたの、可愛くてきれいで」
「昨日獲れたサーモンの大きかったこと」
「今日の風は何て暖かいんだろう」
人々は席を立ってはそんな日常のありふれた情景を話し、その度に感極まって泣き始める者もいる、溢れる気持ちをどうやっても表しようがないという様子で。涙を拭った目がキラキラと輝く。
教会で出会い親しくなった白髪の女性と村の歴史について話し合ったことがある。
「シャーマニズムとキリスト教と、お婆さんが生まれる随分と前のことですが、とてつもない大きな変化でしたね」
そう言う私に、その老婆は澄んだ目でこう答えた。
「彼らがキリスト教を伝えに来る前から、私たちはもう知っていたわ。彼らは『神』という名前、『形』を持って来ただけなの。形は常に移り変わるもの、私たちが既に知っていたものは、変わることはないの」
アラスカで最も大きな町アンカレッジに暮らし始めて12年たった。州の人口約70万人の半数近くがここアンカレッジに暮らしている。先住民の人々はここではマイノリティーであり、先住民の人々が大半を占める村とはまた違うリズムが周りに流れている。
柳欄が風に揺れる。
移り変わる季節の中で、15年前に村で出会った老婆の言葉を、思い出している。
(※)「エスキモー」という言葉は差別語ということで世界的に「イヌイット」に置き換えられる。東カナダに住むクリー族の言葉で「エスキモー」は「生肉を食べる者」という意味で侮蔑的に用いられたという理由からだが、実は亜極北のアルゴンキン系インディアンの言葉で「かんじきの網を編む」という意味だといわれている。またそもそもアラスカ南西部に暮らす「ユピック」はカナダやグリーンランドに住む「イヌイット」とは別の集団。「エスキモー」イコール「イヌイット」というわけではなく、「エスキモー」を「イヌイット」と呼ぶことは、一部を指すための呼称を全体を指すための呼称に置き換えてしまうことである。そこでアラスカでは公にも「エスキモー」という言葉が用いられ、本人達も自身を「エスキモー」と呼んでいる。