ぐるごっこ 番外編 自己啓発セミナー体験記(5)
高橋ヒロヤス
――「あなたによく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うであろう」(マタイによる福音書26-34)
Dさんのアパートの部屋には、何人か先客がいた。そのうちの二人は、大学生風の若い男性と、白髪の女性だった。
彼らはDさんと、今ちょうど世間で話題になっている某新興宗教について話をしていた。
その教団の施設に大規模な強制捜査が行われたのは、前日のことだった。
前後の脈絡は覚えていないが、Dさんが、
「あれは頭の病気だ」
「あの教祖は逮捕されて、死刑になるだろう。でもほんとうに必要なのは刑罰よりも治療だろうね」
と言ったのは覚えている。
Dさんは奥に胡坐をかいて座っていて、特徴的な風貌なのですぐに分かった。太い、よく通る声で、穏やかな口調で話した。頭の回転が速く、時々辛辣な皮肉を口にしたが、ユーモアの方が大きく、笑いこそあれ刺々しい雰囲気になることはなかった。
話しかけづらい雰囲気はなかったが、自分は何となく気後れして黙っていた。
Kさんが僕を簡単に紹介してくれた。「彼はクリシュナムルティをよく読んでいる」と言われたのには多少閉口した。以前Kさんから、Dさんは来る人にクリシュナムルティを読むように勧めていたと聞いたことがあった。
Dさんは僕の方を見て、少しはにかんだような言い方で、
「なんでもオープンにしなきゃね」と言った。
僕はどきりとした。
どういう脈絡での発言か、たぶん周囲の人には分からなかっただろう。僕が「クリシュナムルティをよく読んでいる」ことをオープンにすべきだという意味にも解釈できたが、実はその言葉に個人的な心当たりがあったのである。あまりに個人的なので、ここに書くのも憚られるようなことで。
僕はその前夜、4月から就職することになっている職場の同期の女の子と電話していた。一度顔を合わせただけだったが、その子に好意を持ったので、できれば親しくなりたいという気持ち(下心?)もあった。その時、僕は彼女と会話しながら、「なんでもオープンにしなきゃ」と、一種の強迫観念のように心の中で呟き続けていたのだ。なぜ、どんな意味でそんなことを呟いていたのかはもう忘れてしまった。重要なのは、その心の中の呟きをDさんがそのまま僕に向けて口にしたという事だった。
「このことの意味を理解しないといけない」と僕は頭の中で呟いた。
少なからず僕は動揺していた。
そのとき、僕をさらに動揺させることが起きた。
Tさんが部屋に入って来たのである。
よりによってこんなときに、というのがその時の想いだった。
僕はまだTさんに恋していたが、実らないものと思い込んでいた。顔を合わせる機会も少なくなり、自分には釣り合わないという思いやら、年上すぎるなどと理由をつけて、告白もせず諦めるつもりでいた。
それもあって前夜同い年の女の子に電話したのだが、Dさんの言葉と目の前にいるTさんの姿が何か奇妙な意味を形成しているように思われて、頭の中がいっそう混乱した。
Tさんは少しびっくりした顔をして僕とKさんに挨拶したが、こんな意外な場所で久しぶりに会ったにもかかわらず、特に動揺した様子は見せなかった。TさんもたぶんKさんを通じてここを知ったのだろうと思った。
Tさんは初めてではなかったようで、Dさんに軽く挨拶すると、部屋の隅に座った。僕は久しぶりに会ったTさんと話がしたかったが、個人的な会話をする雰囲気ではなく、その場にいた人全員に共通の話題(某教団のことなど)でしばらく雑談していた。
某教団の強制捜査の話で、誰かが冗談めかして、「ここも家宅捜索されるんじゃないですか」と言った。Dさんは笑っただけで何も言わなかった。実際、このアパートもカルト教団とのつながりを怪しまれて公安警察にマークされていたことが後に明らかになった。
しかしその日は僕の見る限り、何ら特別な目的を持つ集まりでもなく、本当にただ偶然居合わせた人たちが和やかに話をしているという感じだった。僕は普段はこういう場が苦手で、所在のなさで身の置き所がなくなるのだが、不思議と居心地の良さを感じていた。
Dさんはしばらく黙っていたが、不意にTさんに向かって、
「あなた水子がいるね」と言った。
何人もの他人同士が集まっている中で、いきなりこんなことを言い出すDさんに唖然とした。たとえ二人きりのときでも、普通ならこの一言で関係が完全に壊れるだろう。これが霊能者気取りの発言としたら、人間として許せないハッタリ以外の何物でもなかった。
しかし、説明しづらいのだが、何かそんな発言ですらニュートラルに受け止められるような空気がその場にはできていた。僕もなぜかDさんに腹は立たなかった。
Tさんは、(驚いたことに)驚いた様子もなく、「はい」とだけ言った。
静かで落ち着いた口調だった。
僕はTさんに水子(流産した子)がいることを知っていた。別にオカルト的な意味ではなく、セミナーで彼女が話していたからだ。僕がショックを受けたのは彼女のその話だった。詳細は書きたくもない酷い話である。
Tさんはその場では何の説明もしなかった。誰も何も言わなかった。にもかかわらず、その場にいた皆の心底から何かが流れていた。それは「慈悲」のエネルギーと呼んでもいいような気がした。白髪の女性がハンカチでそっと涙を拭った。
そのとき僕はふと、自分が非日常の空間にいることを実感した。それはセミナーによって形成された人工的な非日常ではなかった。強いて言えば、日常とそのまま一体の、日常の裏側にいつもあるはずの非日常の感覚だった。
それはいつもそこにあるのだが、昼間は日光で星が見えないように、普段は覆い隠されていて、何かのきっかけで(大抵は衝撃やアクシデントによって)不意にそのむきだしの、ありのままの姿を見せることがある。
通常は、身体の表皮が剥がれて真皮が晒されたときには、耐えがたいほどの痛みを伴う。だが今のこの空間では、その痛みは感じられない。
Dさんが、自分の前に座るようTさんに目で合図をした。DさんとTさんが、皆の見ている前で、正座して向かい合った。
Dさんは、右手の掌で宙を撫でるようにして、Tさんの左肩の上辺りでゆっくりと何度か上下させた。口の中で何かを唱えているようだったが、声は聞こえなかった。
Tさんは俯いて目を閉じて座っていた。その横顔は美しかった。禊を受けている巫女さんのようだと思った。修道院で祈りを捧げている修道女のようにも見えた。
時間の経過をまったく感じない、そのような状態が、5分か10分くらいは続いた。誰も一言も発しなかった。深い沈黙があった。
Dさんが「いいよ」と言うと、Tさんは顔を上げ、一礼して再び部屋の隅に戻った。心なしか少し穏やかな表情になったように見えた。
僕は霊治療とか浄霊というものを知識としては知っていたが、実際に見たのは初めてだったので、いろいろと質問してみたかった。が、今ここでTさんを前に質問を重ねるのは気が引けたので、別の機会を待つことにした。
ただ僕が「ここでは霊治療もしているのですか」と遠慮がちに尋ねると、「必要な人にはね。でも大抵は医者に行った方がいいよ」とDさんが答え、皆が笑った。ここに来る人がいわゆるスピリチュアルな世界を当然のこととして受け入れているのは明らかだった。
ここに来る前、僕の心には、Dさんがどの程度の人物なのか、「悟っている」のかそうでないのか、「本物」なのかそうでないのか、などと詮索する思いがあった。Dさんを試そうとする心があった。それは以前、好奇心からセミナーを受けてみたのと同じだった。自分は、霊的なことにかけては真偽を見極める能力があると思い込んでいた。
僕は当時、今の日本には「本物」はないと思っていた。かつてはあったのかもしれないが、今はもう失われていると。世界を見渡してみても、クリシュナムルティをほとんど唯一の例外として、本当に真実だと信じるに足る教えを見出すことはできなかった。
その日、僕の中には、Dさんは「本物」かもしれない、という思いが生じつつあった。それを確信するために、僕はDさんがパスできるかどうかの自分勝手な「試験」を内心で考案した。
もしDさんが「本物」なら、疑いの余地のない証拠を示してくれるはずだ。さっきの「なんでもオープンにしなきゃ」という発言だけではまだ確信できないので、今日僕が帰る前に、もう一つ何か個人的な、僕にしかわからない証拠を示してほしい。それができたら、本物だと認める――なんという傲慢な態度だろう! 自分は何様のつもりだったのか、と今になれば思う。でもその時僕は真剣にそう思い詰めていた。
それと同時に、今になって振り返れば、もしDさんが「本物」だったら困るな、という恐れも心底にあったように思う。
その日、Dさんは、主に聖書のイエスの教えについて話していた。
「『他人を裁くな』とイエスは教えただろう。どうしてか分かる?」
「自分も裁かれないため?」誰かが答えた。「聖書にもそう書いてあるし」
「それだけじゃない。それだとそこら辺のハウツー本と同じことになる」(笑い)
「本当に裁くことができるのは神のみだからではないですか」
大学生風の真面目そうな若者が言った。
「キリスト教の教科書ではそれが正解だろうね」笑いながらDさんは言った。
「でも君はどうだい? 本当にそうだと思う?」
「神が存在するとしたら、そうだと思います」
「裁くことができるのは神だけだと?」
「はい」
「神は裁かないよ」
Dさんが力強い声で言った。その響きには一種の凄味さえあった。
そしてゆっくりと一人一人に言い聞かせるようにこう言った。
「みんな自分で自分を裁いているだけだよ」
しばらく沈黙が続いた。Dさんの言葉をそれぞれの人が内心で熟考していた。
そのとき僕の頭にはこんな想念が浮かんでいた。――人はみな他人を裁くことで結局は自分を裁いている。そのことで自分の人生と自分の世界を限定してしまっている。神は決して裁かないし、本来誰も何も裁く必要などないのだ。神はすべてを知っているが、決して裁かない。極悪人の犯した残虐な犯罪も、善人が人生でただ一つ犯した小さな過ちも、神は知っている。しかし裁くのは神ではなく、自分自身なのだ。皆自分で自分を裁いているのだ。本当は裁く必要などないのに――
いつもこういう話題になると話が止まらなくなるKさんは、この日は不思議と黙りこくったまま何も言わなかった。
皆が帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。
帰り際、Dさんは僕に「週に1、2回こういうのがあるから、来たかったらこれからも来るといい」と言ってくれた。来るときは前もって決められた電話番号に連絡するようにとも言った。
僕が4月から就職先で働き始めることを告げると、Dさんは何気なくこう言った。
「ああ、どんな仕事でも、10年はやらないとなあ――」
結局、僕は再びDさんのアパートを訪ねることはなかった。
仕事が忙しかったのは事実だが、それだけが理由ではなかった。
Dさんが僕の「試験」にパスできなかったことも理由に含まれていたかもしれない。
その日、帰り道で、二人きりになったとき、僕はTさんに告白して、振られた。
とても優しい、しかし未練を残す余地のないきっぱりとした拒絶だった。
Tさんは僕の気持ちをとうに知っていて、この日が来るのを待っていたように思えた。
この時は、落ち込むどころか逆にすっきりした気分になった。
これでよかったのだと思った。
僕はその後Tさんに会うことはなかった。
Kさんとの接触も徐々に途絶えた。
色々あって、僕はちょうど10年後に仕事を辞めることになった。
3月で退職すると上司に告げた後、帰り道をぼんやりと歩きながら、あの日帰り際に言われたDさんの言葉をふと思い出した。
脳天から電気が走って、背筋が震えた。
おわり
(註)この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。