潜態論入門(自然科学篇) 第1回

河野龍路  

はじめに
「潜態論」という学問をご存知でしょうか。
 小田切瑞穂という一科学者によって創設された、人間の思想史においては、まだ生まれたてといってもよい新しい学問です。
 この潜態論という、まだ世の中に広く知られていない学問の紹介することがこの連載の主題となります。
 本来であれば、潜態論の創始者である小田切の文章に直接ふれていただくことが望ましいのですが、現在小田切の著作を手に取ることは非常に困難な状況にあります。また、もし潜態論の予備知識がないままに原著にあたったとするならば、難解な学問であるという印象が先行し、その先の核心にたどり着けないで終わってしまうことも懸念されます。その難解さは、わたしたちが今まで出会ったことのない「新しい学問」であるところに由来します。いわば未知の言語の解読を迫られた状況に近いといえるかもしれません。
潜態論は「現れている世界」のすべてを「潜んでいる状態(潜態)」から解き明かしていく学問です。創始者である小田切にとっては、「見えない世界」である潜態こそがありのままの実在の世界なのですが、「見えている世界」としての常識的世界観を抱くわたしたちからすれば、潜態という「見えない世界」を理解することは容易なことではありません。小田切にとっては当たり前のことが、わたしたちからすれば登攀困難な険しい峰と映るのです。
そこで逆に、常識的な世界観を常とするわたしのような凡人から見た潜態論というものがもし可能ならば、道のりを長くとって幾分なだらかな坂にできるかもしれない、というのが本稿執筆のねらいです。もちろんそれによって峰が低くなるわけではありませんから、より高く深い探索は小田切の原著に挑んでいただかなくてはなりません。そしてさらに、読者自らが新たな道を切り拓いていっていただくことこそ、小田切が最も希ったところであります。


1 潜態論誕生

「宇宙の真理をつかみたい」という大志を抱いて科学の門を叩く若者はいつの時代にもいるものです。小田切もまたそうした夢を科学に託した一人でした。
まして時代は大正末期から昭和初期、古典的な科学体系を一新することになる「相対性理論」や「量子力学」が日本に輸入されてまだ熱冷めやらぬ頃で、多感な学生たちの向学心をいやがうえにも刺激していたに違いありません。その当時、小田切の同期の学生には、後にノーベル賞を受賞することになる湯川秀樹や朝永振一郎などもおり、ともに切磋琢磨する仲であったと想像されます。しかし、小田切はそうした新しい科学の潮流に無条件で身を任せることはできませんでした。むしろ逆に、その最先端の科学に人間の知性の限界を感じ取り、不信感を抱きはじめていたのです。科学の道に邁進する一方で、同じその科学に懐疑の眼差しを向けなければならない。その煩悶がやがて「科学は自然をありのままに見ていない」という、これまでの科学の否定につながっていきます。そして、第二次大戦の苦難の日々を送るさ中、ついに「新しい科学」の構想にたどり着き、後に潜態論と名付けられる学問へと結実していくことになります。
その後、小田切による潜態論の研究は、物理学から化学、地球化学、生物学等の科学の基礎論の書き換え、そして文明論を中心とした人文科学系の学問へとすそ野を広げていきましたが、誕生からおよそ半世紀以上の月日が流れた今日、残念ながら未だ人々の注目を集めるには到っておりません。
その理由は多々あると思われますが、現代が、応用面で華々しい成果を収めた科学文明と呼ばれる時代の真っただ中であることが一番の要因ではないかと考えられます。現代文明のいわば思想的エンジンとしての科学の考え方を根底からくつがえしたものが潜態論であり、したがって既成の科学に代わって「新しい時代」の原動力ともなりうる思想だからです。「今の時代」が簡単にはその座を譲るとは考えがたいということです。

2 なぜ科学なのか?

本題に入る前に、なぜ科学なのか?という根本的な話をしておきたいと思います。
理科系の科目は苦手、科学など自分たちの生き方には関係ない、研究は科学者に任せておけばよい。また、わたしたちには科学理論を検証するすべがないし、まして数学は難解である。

一般に、いわゆる理科系以外の人々は多かれ少なかれこのようなイメージを抱いて、科学に対して距離を置いている人も多いのではないでしょうか。しかしそうした人々でもおそらく、科学的なものの考え方を否定することはまずないはずです。今回の大震災による原発事故について、物理学的な解説による原子力発電の基本原理や、震災や津波と事故の因果関係などを多くの人が知ることになったでしょうし、放射能が環境や人体へ与える影響なども生物学的あるいは医学的な説明がなされて、その情報は巷での普通の会話に登場しています。

このように、科学的な説明方法に対してわたしたちは疑いの目を向けることはほんどありません。それは言い換えると、科学理論を受け入れる素地がすでにわたしたちのなかに育っている、ということに他なりません。科学を受け入れる素地とはすなわち、わたしたちの世界観のことですから、わたしたちの生き方考え方の基礎ともなっているはずです。これがなぜ科学なのかという理由の第一点です。

仮に科学思想がわたしたちの世界観の枠組みであることは認めても、人間の理性や意志は自然界の必然的な法則に従うものではなく、自分たちの生き方には関与しない、という考え方もあります。たしかに当の科学者であっても、科学理論から人生の指針や社会の理想を導き出そうとする人はまずいないでしょう。なぜなら、人間の理性や意志は自然界の必然性からは自由であり、自然界を支配できる立場にある、と一般には考えられているからです。この必然的な自然観と、そこから自由な人間観という対立構図は、自然科学と人文科学という学問の二極化に象徴的に現れています。

わたしたちの世界が、物理的な必然性に従う自然界と、人間の自由意志によって実現される人間界という二つの相異なる領域として経験されることは否定できません。しかし宇宙に断絶がみられない以上、この二つの領域をさらに基礎付ける大原因が必ずあるはずです。本来であれば、自然科学がもし本当に、この大自然の真実を明らかにする思想であるならば、たとえそれが完成形ではないとしても、この宇宙の大原因に立って、人文科学をも含めた諸学を統一する役目を果たさなければならない位置にあるはずなのです。

「茲(ここ)に改めて注意を促しておきたい事がある。其れは筆者が屡々(しばしば)〝書替えられた科学〟などと語るときもあるが、此の際の科学とは、決していわゆる〝自然科学〟のことではなく、従来〝社会科学〟或は〝人文科学〟などと称して個々に区分せられた一切の分野を包含するものであること、否寧ろ〝書替えられた科学〟即ち潜態論的科学に於ては一切の区分が、自ら消滅して、一に帰していることに留意せられたいとの注意なのである。」*1

つまり「一切の分野を包含する」学問としての潜態論においては、理系か文系かという従来の二者択一的な選択肢ではなくなるということになります。たとえ人文系の学術から入門したとしてもその道はそのまま理科系の分野に地続きだということです。これがなぜ科学なのかに対するもうひとつの答えです。例えば、ある人の携わる仕事が、たとえ科学には縁遠いものであったとしても、総じて人の営みは「自然の道理の具体化」という行為からはずれることはありえません。ですから、本当の意味での自然科学すなわち〝書替えられた科学〟は人生全般に直結するものであるという言い方ができるかと思います。

先に述べたように、自然科学的な世界観は、わたしたちの世界観の枠組みでもあり、わたしたちの生き方にも多大な影響を与えていますが、科学の理論的内容は、その応用面を除いては、わたしたちの人生には直接関係していません。例えば、物質の最小単位である素粒子がいくつあって、種類はこれこれで、ということを知ったところで、知的な満足感は得られたとしもてもそれだけのことです。素粒子が6つであろうが1000であろうが、それを知ることでわたしたちの生き方が左右されることはありません。しかし潜態論の場合はそうはいかないのです。単なる知識の探求で理解することは不可能だからです。潜態論を理解するためには、これまでの認識方法を変えていかなくてはなりません。言い換えると、それは自分を変えるということでもあり、潜態論はそれを学ぶ者の生き方に連動しているということなのです。人文科学との境がなくなったとはそういうことでもあります。

3 潜態論とは?

潜態論とは、この宇宙のあらゆる出来事は、わたしたちの認識からは隠れた世界(潜態)から生まれている、という思想です。

なぜそのような認識しえない世界のことを知る必要があるのかというと、それこそが本当の主体、主役だからです。この宇宙の本当の主役である潜態を知らないことには、そこで演じられている出来事の真相にふれることができないからです。

いや、わたしたちはこの宇宙の真実について非常にたくさんのことを知っているではないか、そう反論されるかもしれません。たしかにその通り、これまでわたしたちはこの宇宙内の出来事について膨大な知識を獲得してきましたし、これからも次々と新たな知識は増え続けていくことでしょう。

しかし、それら多くの知識は「現実を直視」していないのです。通常、自然界をありのままに捉えていると思われている科学でさえ、目の前の現実を直視しているとは言い難いのです。あるいは、このような言い方は非常に意外に思われるかもしれません。というのは、日頃わたしたちは、世界の現実を感覚上ではありのままに受け止めており、そして科学はさらにその現実をありのまま精密に記述していると信じられているからです。

後述において、科学が実は「ありのまま」の現実を直視してはいないことを示しながら、その理由が、潜態という主役を見過ごしているからであることを明らかにしていきたいと思います。


*1 『科学解脱』(桜楓社1967年)P225