潜態論入門(自然科学篇) 第3回

河野龍路  

1 潜態
 

現象の本質である潜態とはいかなるものなのかについて、直感的な切り口から説明していくことにします。


 あらゆる現象は、それを生み出した宇宙と繋がっている側面を必ず持っていなくてはなりません。簡潔な言い方をすれば、それが潜態です。

山に咲く草花は、空気中から二酸化炭素および酸素を吸収し、土壌からは水分や栄養分を得て成長していきます。その土壌の成分はさらに周囲の土壌や岩盤、さらに深い地質から補給され、その繋がりはついには山全体にまで及びます。そして山は地殻を超えてこの地球と繋がって刻々とその姿を変えつつあることは地質学が保証してくれています。草花を囲む大気という環境をとってもそれは地球全体の気象現象の影響下にあることは気象学的にも否定できないはずです。もちろん大気現象と地殻現象も相互に無関係ではいられません。さらにこの関連性はさらにどこまでも果てしなく広がってしまいます。これが、草花が宇宙と繋がっているという側面です。この連携なくして草花が生まれることはありえません。これは草花などの生命現象に限らず、化学反応にしろ、単純な力学的な運動にしろ、すべての現象がこうした側面を持っていなかったとしたら、それは宇宙とは無縁の不可思議な存在となってしまいます。

 

草花の実態は上述のように、広大な繋がりのなかにあります。早い話が、もし地球がなければ草花も気象もありえません。それはへ理屈であって、科学にしても地球の存在を前提にして語っているつもりである、そういわれるかもしれませんが、それは前提ではなく、本論でなければ意味がないのです。

 

草花という現象の持つ二面性についてもう一度確認します。

 

①「草花」としてわたしたちの認識の対象となっている側面

 

②「草花」が他の一切の現象と繋がりを持つ側面

 
 

譬えて言えば、水道水には蛇口をひねってわたしたちの口を潤す面とその大元の水源に繋がっている両面があるように、この両面を兼ね備えているのがありのままの現象の姿で、どちらかが欠如するときにはそれは現象であることを否定することにつながります。

 

ところが②の草花の姿を感覚や意識でとらえることは絶対に不可能です。したがって正確には、②は「草花」ではありません。「草花」として切り取られる前の状態ですからそれはまだ「草花」ではありません。すなわち、それが潜んでいる状態「潜態」です。生物学的には、その草花が生息している理由は、土壌や大気環境という観測可能な領域から判断されるのでしょうが、ひとたびその関連性を認めてしまったら、その連絡はどこまでも際限なく広がっていってしまうはずで、それを途中で断ち切るのは自然の側ではなく人間の主観です。

「・・・科学に於いては常に考察の対象を設定するが、事実上は対象と環境の遮断は不可能であって、観念上の境界設定に過ぎない。深く考察する人にとっては両者は常に全く疎通状態にあって、いわば辛うじて系の内外の定常的外見が保たれているに過ぎない。」

(「科学解脱」p14)


2 潜態の原理  融重、自閉(半開)

 

上記の例をもとに潜態の基本的原理を簡単に説明していきます。

 

①「草花」としてわたしたちの認識の対象となる側面=現象

②「草花」が他の一切の現象と繋がりを持つ側面  =潜態

 

草花の実態とは潜態であり、そこではすべての現象と繋がっていると述べました。

 

これを潜態の「融重」といいます。潜態ではすべてが干渉しあっているということでもあります(因干渉)。潜態が感覚や意識にかからないのは、この融重の原理があるためです。どんな精密な観測機器をもってしても潜態をとらえることはできません。観測とは潜態の融重を断ち切ることにほかならないからです。

 

一方、潜態にはこの「融重」に反して、認識にかかって切り取られるという側面も内包されていなくてはなりません。この性質は潜態が草花などの特定の現象に「閉じる」作用ということができ、それを「自閉」といいます。したがって潜態には「融重」と「自閉」という相反する性質が潜んでいることになります。

 

①現象=「自閉」

②潜態=「融重+自閉」

 

すると、①の現象は②の潜態における自閉的側面のことであって、両者が別ものでないことがわかります(これを小田切は「現象即潜態、潜態即現象」と表現しています)。「自閉」とはいっても、現象は潜態の融重から独立して完全に閉じることはできません。つまり現象はある程度「開いて」いなければならいということで、これを現象の「半開」といいます。「半開」とは完全に現象に閉じられていないということ、明確な輪郭を持たないとうことです。

 

草花も土も大気も日光もすべての現象は「半開」であるからこそ相互作用を起こすのです。例えば、地球がひとつの循環システムであるということがよく取り上げられますが、そこではばらばらな現象を相互作用によって結び付けて、現実の循環に合わせるように合理的な説明がなされています。しかし、本当の循環はそれぞれの要素が「半開」であるからこそ起こるのであって、しかもその現象の半開性は潜態の「融重」という繋がりに由来するのです。

 

以上からわかるように、①の現象とはわたしたちの感覚上の現象つまり科学の対象とする現象とは異なります。それ以前の現象そのもののことです。ここが少しややこしいところですが、対象となる現象そのものはわたしたちの感覚を離れてもそこになくてはなりません。それが①です。いま、この①の現象をいわゆる通常の現象と区別するために「潜態論的現象」と名づけておくことにします。わたしたちの認識に先立って存在する先方の「草花」がそれです。

 

「潜態論的現象」が認識にのぼってわたしたちの知る現象となるわけです。したがって科学的な客観現象というものは認識を離れてそこに実在するものではありません。

 

認識上の現象(草花の像) 

 ①潜態論的現象(草花そのもの) 

②潜態(草花の本質)

  

前回述べたように上段の二つが同一であると考えるのが、科学が暗黙の前提としている哲学です。しかし実際にはこの二つは異なるのであって、潜態論的現象とは認識によって摘み取られる前の草花のことです。そして①は②の潜態なくしてはありえません。①の原因はすべて②にあるからです。ここが他の現象に原因を求める科学とは異なるところです。現象上のあらゆる真因は潜態に遡らなければ理解することができないのです。ですから潜態は現象の命ともいうべきものであって、生物においては万人が認めているところのものにほかなりません。


3 潜態の記述

 

・「草花」の認識像=科学的な現象

・「草花」そのもの=潜態論的現象

・「草花」の本質 =潜態


潜態論の記述の説明にあたって、まず最上段にあたる既成の科学の記述について確認しておきたいと思います。ためしに科学的書物あるいは教科書をひもといてみてください。そこで見出される科学理論を構成する要素はどれもそれ自身で独立した存在あるいは物質であるはずです。例えば、

 
 

・生物学における各種個体あるいはその構成員である細胞

 

・化学反応における二酸化炭素(CO2)などの分子、鉄(Fe)、H水素(H)などの元素

・素粒子物理学における電子(e)、陽子(p)…


 上記はいわば存在についてですが、それらの相互作用を記述する数学的記述についても同じく、数式を構成する各要素はすべて独立した要素からなります。

 

潜態論的な言い方をすれば、科学の記述は現象に「閉じている」とういことです。鉄(Fe)は独立してそこにあり、それは鉄以外の何物でもありません。つまりこの鉄(Fe)にはそれ以外の現象が付随していません。完全に「自閉」した姿として描かれています。物理学では、鉄原子が周囲の酸素や水分また諸種の電磁波や素粒子などの環境からの影響を認めているではないか、そう反論されるかもしれませんが、まさにその相互作用の可能性がこのFeという閉じた記号にはないのです。草花、土壌、空気、といった断片を組み合わせても、私たちが目の当たりにしている生きた現実を再現することはできません。なぜなら、閉じられた現象には相互作用をする力がなく、わたしたちとも無縁の存在となるからです。

 

この科学的な対象としての自閉した現象をいまかりにA、土壌や大気などの環境現象をEで表すとします。

すると半開の「潜態論的現象」の記述は、以下のような閉じられた現象を断ち切る表現となります。

・ A  ,  E

・ (A|A) ,(E|E)


 カッコが閉じられていないことで現象の半開を表し、AとEの相互作用も可能となります。(AとA) が完全に閉じてAとなるという意味です。

 

現象が半開であるとは、潜態が閉じきれないということで、半分(量的な半分ではない)は潜態であるということです。言い換えると現象が潜態を付随させているとういことで、それは潜態論的記号の白紙の余白部にあたります。

この半開の現象の記述の重要な点は、A,Eが断ち切られることにより、その内外の余白部も記述領域となっていることにあります。(A|A) ,(E|E)は、その内面をさらけ出すとともに環境的外部との疎通をも記述しているということです。電磁力や重力という相互作用が、現象の内面から発して相手の内面に及ぶことからすれば理にかなった表現となっているわけです。

 

それでは次に潜態の記述です。

 

潜態は認識しえない本質ですから、白紙全体がそれにあたるのですが、そこには(A|A) ,(E|E)という現象の原因を潜ませているはずですから、以下のように記述されます。


・|A),(A| , |E),(E| 

 

カッコが向き合っていないことで、それが潜態で他のすべてに向き合っていること、つまり融重していることを表示しています。

 

潜態にはAもEもなくそれらの相互作用もありません。ただそれらの原因となる状態があるだけです。|A),(A| , |E),(E| が A,Eの原因であり余白部が相互作用のいわば場となります。植物が成長して花を咲かせるのも、種を風に託すのも、ある日しおれて一生を終えるのも潜態で繋がっているからであるということです。

 

比喩的に表現すると、通常の現象は実線――、半開の現象は点線……、潜態は紙全体となります。


科学が宇宙の本質に基いていないとすれば、それほど根本的な欠陥が科学体系のほころびとして見出せないはずはありません。

 

潜態論的記述の要旨を確認しながら、「存在」と「変化」という縦糸横糸で織り成されている科学的世界像という織物のほころびを見ていくことにしましょう。


●存在

ご存知のように、自然界は微細な素粒子から巨大な天体に到るまで壮大な階層構造をなしています。

それら無数の存在も最終的には100種あまりの元素の結びつきからなり、元素は陽子、中性子、電子などの素粒子によって構成されます。こうした多様な自然界の姿が、ミクロな世界から階層的にできあがっている事実を明らかにしたことは永年の科学的研鑽の成果にちがいありません。

 

素粒子、原子、分子、高分子、細胞、多細胞生物と複雑な現象となるにつれて、物理学、化学、生物学の考察対象となる実体が登場しますが、それぞれの実体の間にはどのような関係があるのでしょうか。例えばH, H, Oという原子が結びつくと水分子H2Oという別の実体が現われるのはなぜなのか。水素原子という実体と水分子という実体の間にはどのような関係があるのかについて、科学では暗黙の了解事項とされているように思われます。

 

結論から述べると、この科学的対象としての実体というものは、現実には存在しないものであるというのが潜態論の見解です。

 
 

複雑で巨大な現象ではわかりにくいので、電子を例に説明してみます。

 

電子現象として確認される主な属性には以下のようなものがあげられます。

 

・質量

・電荷

・磁気モーメント

 

これらの属性を一身に背負っている実体、本体が存在していると考えられ、その本体を電子と名づけているわけです。ではその本体とはいったい何でしょうか?

 

当然これも科学の考察対象でなければならないはずですが、それが客観的対象として観測されたことはいまだかつてありません。質量、電荷、磁気モーメントといった属性の全体が本体だといわれるかもしれませんが、その全体というものが存在するためにはこれらの属性を一つにまとめる何かがなければなりません。だとすればこれらの性質を一つにしているものは何者なのでしょうか?この問いは、りんごや地球でも一緒です。 わたしたちはそこにりんごや電子の全体を見ていると確信しています。しかしそれらを記述しようとすると、ばらばらな属性を列挙することができるのみであって、電子の本体については提示しえないことがわかるはずです。

 

つまりわたしたちは、自然界の階層構造の骨組みである実体というものの正体を知らないのです。このばらばらに観測される性質をひとつにしている対象がそこにはあるはずで、わたしたちの意識もその本体を志向しています。それにもかかわらず、その本体が認識できないのです。なぜ認識にかからないのか?それは潜態によるものだからです。

いまaおよびbという属性を持った現象Pがあったとすると、それらの属性は潜態論的に

 

(a|a) ,(b|b)

 

と半開表示されます。それらが一つの現象をなしているということは当然、潜態において密接な融重の関係にあるということで、以下のように記述されます。


| P) = | a) + |b)

(P| = (a| + (b|

+は融重の記号です。


これらの各項が相互に干渉しあっていますから、潜態論的現象は以下の要素の集合となります。


(P|P)={(a|a) , (a|b) ,(a|b),(b|b)}


 

右辺の真ん中の二つの項は互い違いに閉じていますが、これを両端の自閉に対して「他閉」と呼びます。潜態において融重しあう性質が現象上で統一されるのは当然ですが、それが具体化されるにあたっては半開の属性間の相互干渉を通じてなされます。(a|b) ,(a|b)の他平項は(a|a) ,(b|b)を結合する役目をするとともに、a , bとは異なる属性ともなります。

この記述をご覧になれば、各属性がひとつに結ばれ(P|P)という現象を呈示する理由がわかるかと思います。現象Pの本体というものがあるのではなく、属性をつないでいる本体の正体は潜態だということが明確になります。

 

さらに(P| P) は(Q| Q)と結びつけば、そこにまた統一的現象の発生を見ることになりますが、このように階層的に現象が大きくなりうるのもそこに実体がないからだということができます。すなわち自然界が階層構造をなしているという現実は、それらが潜態を原因としてそこから浮かび出たものであることの大きな証拠とも考えられるのです。


●変化

自然のもうひとつの顔である「変化」についても同じようなことがいえます。


自然界の事物は例外なくその姿を変えていきます。

科学的世界観ではそうした自然界の変化を、化学的変化と物理的変化に置き換えて理解します。


化学的変化とは、例えば炭素が燃えて二酸化炭素が発生するという場合、

C + O2→CO2

という化学反応式で表されます。

C, O2, CO2は先に述べたように閉じられた記号です。これらの記述から変化を読み取ることはできません。C, O2, CO2という無変化の固定的な現象を→で結んで変化の記述としているのです。この反応式において「変化」と呼ばれるべき要素は→をおいて他にはありません。最初の出発点と最終地点を結んで変化としているわけです。もちろんより詳細にわたる途中経過も考察されていますが、それはより細分化されたa→bの組み合わせに分析されるだけだといえます。反応式には、C, O2, CO2相互の内面的なやりとりも、環境からの影響もありませんし、時間的要素も見当たりません。しかしすべてのものが変化を免れない自然界において、そのような固定像を持つものが許されるでしょうか。

 

要するに変化とは、C,O2,CO2自体にも付随していなければならないということです。 それはC,O2,CO2という存在があってそれに変化が伴うというのではなく、常に生まれ変わっているものが存在そのものだとうことです。


 

変化とはいうまでもなく、前とは幾分異なった状態に移行することです。

 

朝日が昇り、鳥が鳴き、草木が風にたなびき、りんごが落下する・・・いまそれらの変化を代表してaからa’ に移り変わるとし


・・・・a→a’・・・・・

と表すとします。

これは先に述べたように、固定像間の移行です。


もちろん科学はこの間を無限に狭めていって微分法という数学的手法でもって流動的な量的変化を記述していると考えられています。しかしどこまで細かくしていっても、この固定像の間の移行という前提には変わりありません。しかも何ゆえ異なった現象が次々と現われ来るのかという変化の本質についての疑問には答えていません。つまりaがa’ に変わらなければならない必然性はないわけで、逆回転も可能と見なされるのはそのためです。自然界の変化を止めることができない理由が数式には含まれていないということです。

 

aがあるときはa’ はまだありません。逆にa’があるときはa はもうありません。したがってその二つを結んで現実の変化を表すことは不可能です。潜態論的には、はそれぞれ(a|a)、(a’|a’)と半開の現象となります。したがってそこには流動的な変遷が可能となるのです。これを言い換えると、去り行く側面(a|a)と立ち現われる側面(a’|a’)の両面を潜態論的現象は同時に持っているということです。したがって、aを見たということはすでにa’ への移行をそこにはらんでいるということで、それが変化の必然性をもたらすわけです。潜態論では去り行く面(後退面)をl(エル)で、立ち現われる面(生成面)をr(アール)で表し以下のように記述します。


(al | al)、(ar | ar)


物理的な観測における瞬時に等しい現在でも、わたしたちの日常におけるような幅のある現在であっても、それが現象である限りはこの両面を具有しているということです。そして、この両者が統一的な現象となる理由は潜態にあることはいうまでもありません。潜態では以下のように融重として記述されます。

 

|al)(al | 、| ar)(ar |


これらの各要素は互いに干渉しあうことによってひとつの現象を呈示しますから、現象化に際しては以下の4種の要素が出現することになります。


(al | al)、(ar | al)、(ar | al)、(ar | ar)


中の2要素は互い違いに閉じている「他閉」となっています。これらの要素があるために対象はひとつの存在として感知され変化を余儀なくされるわけです。潜態論ではこの集合をひとまとまりの行列の形で記述するのですが、ここではかりに{   }でもってその代わりとしておきます。


{(al | al)、(ar | al)、(ar | al)、(ar | ar)}


これが、ここまでの現象a の潜態論的表示となります。