ぐるごっこ 番外編 自己啓発セミナー体験記(2)

高橋ヒロヤス  

Tさんの家のリビングに座っていたその男性は、自己啓発セミナーで僕のすぐ前に座っていた人物だった。


ここで、セミナーの形式について簡単に説明すると、基本的にはファシリテーターとかコーチとか呼ばれる人物(正式名称は忘れた)が前に立ち、向い合せに3,40名の受講生がパイプ椅子に座って講義を受けるという形が取られた。


椅子を円形に並べて話をしたり、一人一人が皆の前で自分の意見や体験を発表したりする(シェアする)という時間もあった。5,6人の小グループに別れて対話するという時間もあった。


その男性(以下、「Kさん」と呼ぶことにする)は、セミナーの期間を通じて、だいたい僕と同じグループの中にいた。互いに個人的な話をすることはほとんどなかったが、その生活ぶりは発言を通じてなんとなく知っていた。


年齢はたぶん30代、中央官庁に勤めるキャリア官僚だった。セミナーの中で彼の話したことで覚えているのは、20代の頃、連日深夜残業が続き、ストレスが溜まっていたとき、家まで乗ったタクシーの運転手を殴って逮捕されたという話だった。それはエリート官僚の失態としてニュースにもなり、彼は懲戒処分を受けた。


それでも数年間地方都市に出向して戻って来た後は、元通り出世階段を歩み始めた。それほど優秀であり、組織にとって得難い人材だったと言うことだろう。彼は若気の至りの失敗から、謙虚であることの大切さを学んだというようなことを話していた。


それ以外に、Kさんがセミナーを受けた目的を皆の前で発表したとき、「人生の意味」を取り戻したいからだと言ったことを覚えている。そんなことを言う人は他にいなかった。ほとんどの人は、仕事のモチベーションを高めるためだったり、ダイナミックに生きるためだったりなどと話していた。僕は、「好奇心から」とはとても言える空気ではなかったので、なんだか抽象的な、曖昧な事を言ったような気がするが覚えていない。


セミナーには、僕が受けた「ベーシック・コース」の後に、さらに高度な「アドバンス・コース」が用意されていた。僕はもちろん「アドバンス・コース」は受けていなかった。何より学生の僕にとっては受講料が高額すぎたし、セミナー自体にそこまで深入りするつもりはなかったからだ。


Kさんが「アドバンス・コース」を受けたのかどうかは知らなかった。僕との連絡パートナーに指名されたTさんとは、僕が娘のRちゃんの家庭教師をするようになってからは、セミナーに関する話はほとんどしなくなっていたので、Tさんはセミナーを続けていないと思っていた。


TさんのリビングでKさんを見たとき、僕はTさんとKさんが男女の関係にあるのだと直感した。年齢的にも、お互いの雰囲気も相応しく思われたから、そう想像することに特段の抵抗はなかった。


しかし、なぜ自分が今日ここに呼ばれたのかについては見当がつかなかった。

真っ先に思い当たったのは、「アドバンス・コース」への勧誘だった。セミナーのメンバーにとって、最も重要な活動とは、他のメンバーを勧誘すること(エンロールすること)であった。


セミナーを通じて得た素晴らしい体験を他者と分かち合い、できるだけ多くの人々とそれをシェアすることが、世界に対する最大の貢献であり、そのための勧誘活動は最も価値あるものとされていた。


僕はその考え方自体に馴染めなかった。そこには、本当に素晴らしいものを他者と共有したいという純粋な善意だけではなく、特定の集団・組織の利益を最優先させるという「邪心」が混じっているように思えた。


そう思った根拠の一つが、セミナー主催団体が要求する高額な受講料であった。セミナーの中では、その利益は世界の貧困や飢餓をなくすための活動に寄付されているのだと言われていた。実際そうだったのかもしれないが、彼らの勧誘活動とその正当化にかける情熱は、当時の僕に一種異様な感覚を与えた。その部分に関しては、セミナーには狂信的な新興宗教を思わせるところがあった。


今日、Tさんが、Kさんと一緒になって自分を勧誘する目的で家に呼んだのだとしたら、僕は頭から拒絶するつもりだった。もともとKさんが同席するなどと言われてもいないしそんな事態は想像もしていなかったから、僕にはTさんに裏切られたような気持ちもあった。


少し憤りの混じった気持ちを抑えながら、Kさんとぎこちなく挨拶を交わした後、Tさんがおもむろに意外な事を口にした。


「Kさんは・・さん(僕)の高校の先輩なんですって?」


そのときにはすっかり忘れていたが、確かにKさんは僕の高校の卒業生だった。セミナーの間に気付いたのだが、向こうが話題にする風もなかったので、こちらも敢えて伝えなかった。


Kさんはきっと極めて優秀な学生だったに違いない。今の彼の社会的地位からもそれは明らかだろう。Tさんが改めて明らかにした事実は、僕を一層気まずい思いにさせるだけだった。


Kさんも会話に加わり、しばらく世間話のような会話が続いた。最近の学生がどうとか、Tさんがマネージメントしているタレントがどうしたとかいう話題がひとしきり続いた後で、Kさんが、いよいよ本題に入るという調子で、こう口にした。


「ところで・・君は、『アドバンス』は受けないの?」


ほら来た、と思った。


「そんなお金がありませんから」


「受けたいけれどお金がないという意味?」


「正直言うと、受けたいとも思いません」


「どうして?」


Kさんは、まるで理解できないという調子で尋ねた。


「セミナーが役に立つ人たちがいることは否定しませんが、今の自分には必要がないと思っています」


「君はそんなに今の自分に自信があるの?」


「そうではありませんが、自分に自信を持つためにセミナーを受けるという行為自体に疑問を感じているのです」


「それが君の問題だと思うな」


そう言いながらKさんは半ば同情的な表情を見せた。

ちなみに、セミナーでは、特定の個人が抱えている問題(その人の自己実現を阻んでいる要因)を特殊な専門用語で表現していた。Kさんはこのときもその表現を用いたのだが、その用語が思い出せない。


「君の弱点は何でも考え過ぎるところだ。慎重になることも時には必要だが、人生には『見る前に跳ぶ』ことでのみ突破できるタイミングというものがある。君にとって、セミナーで自分の可能性に気付いた今をおいてそのタイミングはないと思う。『今』を逃すと、次の機会が巡って来ることはない。来たとしても、もはや踏み出すだけの勇気も勢いも失われている」


「突破する」という表現はまさにこのセミナーの主要テーマであった。


Kさんの言っていることは典型的な勧誘の常套句だ、と感じた自分には、その時点で彼の言葉を受け入れる余地はまったくなかった。目の前のKさんと、自分を騙すようにして家に呼んだTさんに対する怒りがふつふつと沸いてきた。


「以前から僕は自己啓発セミナーというものについては懐疑的でした。それが存在することに反対しているわけではありませんし、一定の効果を挙げていることも否定しません。でも、僕にはどうしてもしっくりこないのです。そもそも、啓発される『自己』というのは何なのでしょうか? セミナーとは所詮エゴの欲望を満足させるための洗練されたツールにすぎないのではないでしょうか? Kさんはセミナーを通じて『人生の意味』を掴むことができたのかもしれませんが、僕には掴めませんでした。というよりも、この方法によって掴むことができる『人生の意味』に価値があるとは思えませんでした」


僕は、こんなことまで言うつもりはなかったのだが、怒りにまかせて不必要に踏み込んだ発言をしてしまったと後悔した。


だがKさんは特に驚いた顔も見せず、僕の言うことに冷静に耳を傾けた後で、静かにこう言った。


「君はまたもや考え過ぎている。君の頭の中には『セミナーは自我の欲望を満足させるためのツールにすぎない』という固定観念がすでにあって、それに自分がセミナーで見聞きしたものをあてはめているだけだ。そんな態度では決して自我の殻を『突破』することはできない。他人をエゴイストだと批判しながら、実は自我の殻に閉じ込められているのは君の方だと思うね」


「アドバンス・コースを受ければそれを『突破』できるというのですか?」


「そうだ」


「それは別の罠にすぎないと思います」


「大事なのは議論することではなく、実践することだ」


「Kさんのいう『実践』とはアドバンス・コースを受けることを意味するのでしょう。しかしセミナーを受けることは実践ではないと思います。真の実践とは、普段の生活の中で自我の動きを絶え間なく凝視し続け、自我の用いる巧みなごまかしや罠を見抜くことです。それを実践する“方法”を他人に教えてもらう必要はありません。なぜなら方法というのはエゴの用いるトリックにすぎず、方法に従うことは思考を一定のパターンに閉じ込めることでしかないからです。所詮は自我の投影にすぎない“トレーナー”達の指導を受けることは結局、真の実践である自己観察を妨げるものでしかないと思います」


僕は、当時読んでいたクリシュナムルティの受け売りみたいなことをこんな風に言い終えると(もちろんこんなに流暢に弁じたわけではないが)、Tさんを見た。彼女は黙って二人のやり取りを聞いていたが、無表情で、どちらの味方にも見えなかった。


「こういう話のためだったのなら、もう帰ります」


そう言って僕が席を立とうとしたとき、Tさんが口を開いた。


「実は、今日はお願いしたいことがあるんです」


「セミナー関係のことなら、お断りします」


「違います。Kさんに来てもらったのは、セミナーとは関係がないんです」


僕はまだ半信半疑だったが、一応話を聞いてみることにした。


つづく


(註)この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。